<島守忌が結ぶ絆>俳句で伝える沖縄戦(上)大会創設
2018/07/03 18:00
大会に向けて打ち合わせをする実行委員会の名嘉山(左)と選者の垣花和=那覇市松尾1
■島田元知事の功績 後世に
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初夏の太陽が照りつける4月中旬、那覇市の那覇高校・同窓会館に次々とはがきが届いていた。6月に沖縄県で開く「第1回島守忌(き)俳句大会」への応募だった。太平洋戦争末期、住民の生命保護に努めた神戸出身の島田叡(あきら)・元沖縄県知事らをしのぶために企画された。
悲惨な戦場、平和への願い、基地問題…。思い思いの言葉を託した句は1300を超えた。神戸、姫路、豊岡など兵庫からも700以上が寄せられた。実行委員会事務局の名嘉山興武(なかやまおきたけ)(72)は、ある句に目が留まった。
「ガマ深く 黒糖ひとつ 島守忌」(神戸市西区・東かつじ)
住民を巻き込んだ地上戦があった沖縄では、20万人以上が犠牲になり、県民の4人に1人が亡くなった。ガマは「鉄の暴風」と呼ばれる砲爆撃から人々が身を隠した洞窟。黒糖は、飢えの中で命をつないだ非常食だ。島田が自分の黒糖を若い部下に分けた逸話も残る。名嘉山は「俳句の力で戦史を後世に伝えられる」と確信した。
戦禍の中、住民目線の行政を実行したのが島田だった。戦局悪化を熟知して赴任。疎開、食糧調達に奔走し、最後まで県民と生死を共にした。今も「島守」とたたえられる。
名嘉山は終戦の年の1945(昭和20)年に疎開先の大分県鶴崎町(現大分市)で生まれ、一家9人も生き延びた。疎開推進のおかげと感謝する。その後、島田の故郷兵庫と縁を深める機会に恵まれる。
沖縄が本土復帰した72年、両県は「友愛提携」を結び交流キャンプを始めた。夏は兵庫の青年が島の戦跡を訪ね、冬は沖縄の若者が但馬の雪山を満喫した。沖縄県教育委員会に勤めていた名嘉山も、何度か団長として付き添った。
戦後も沖縄は米軍の事故、兵隊の事件が絶えなかった。そのたびに怒りがこみ上げていただけに、兵庫の温かさは身に染みた。それは、キャンプに参加するうちに知った島田の行動と重なった。
「この絆を守りたい」と、島田の追悼行事にかかわるようになった。戦後70年の3年前は、那覇市の「島田叡氏顕彰碑」の建立活動に参加。碑文を前に仲間から「今度は言葉で島田さんの功績を残そう」と、俳句大会が提案された。
沖縄県は組織的戦闘が終わった6月23日を「慰霊の日」とする。島田が行方を絶ったのもこの頃だ。この時期を季語の「島守忌」として定着させようと議論は発展。名嘉山は実行委員を引き受けた。
兵庫にも呼びかけ、数多くの投句があった。机に並ぶ作品を前に、名嘉山は言い切った。
「島田さんが結んだ絆は、今も生きている」
◆
6月17日、沖縄県糸満市で島田叡らをしのぶ俳句大会が開かれた。実行委や兵庫の参加者の思いを通じ、沖縄戦を伝える姿に迫る。
=敬称略=
(津谷治英)