<島守忌が結ぶ絆>俳句で伝える沖縄戦(下)「生きろ」

2018/07/06 18:00

「島田叡氏顕彰碑」の前で俳句大会の発展を誓う実行委員会の(右から)名嘉山興武(なかやまおきたけ)、垣花和、嘉数昇明(かかずのりあき)=那覇市奥武山町

■島田の信念 地域を越え

 6月17日、台風一過の沖縄県に晴れ間がのぞいた。島の南端、糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念資料館で「第1回島守忌(き)俳句大会」が開かれた。多数の住民が犠牲になった地で、次々と平和を誓う作品が詠まれた。
 県民を守ろうと尽力しながら散った神戸出身の島田叡(あきら)・元沖縄県知事らをしのぶ句会。最高賞の県知事賞は鎮魂句だった。

 「島田忌の 御霊(みたま)へ灘の 生(き)一本」(沖縄県豊見城市・古波蔵(こはぐら)里子)

 「灘の生一本」は神戸の銘酒。選者を務めた沖縄県俳句協会の垣花和(かきのはなかず)会長(71)は「島田さんの故郷をよく知り、感謝が込められている」と評した。
 垣花は1947(昭和22)年、宮古島で生まれた。那覇市の首里高校野球部に入り、甲子園出場を果たした。沖縄では、秋の県高校野球新人大会の優勝校に島田杯が贈呈される。64年に島田の母校・兵庫高校の同窓会が贈って以来の伝統だ。球児は白球を追いながら島田の名を心に刻む。垣花もその1人だった。
 高校教諭になった後、結婚。妻の両親は戦禍を生き、亡くなった親戚もいた。戦争体験のない垣花に、義母の経験談は強烈な印象を残した。幼い娘をおぶって洞窟や山を逃げ回った。米兵は怖かったが、日本兵から食糧を取り上げられる村人もいたという。
 話を聞いたころ、沖縄は米国統治下で、米兵による事件が起きても地元は罪を問えない。現実と義母の話に同じ根を感じた。
 「自分の意思と関係なく戦場に巻き込まれ、戦後は米軍のなすがまま。あまりに理不尽過ぎる」
 頭に浮かんだのが、高校時代に知った島田の存在。軍国主義が社会全体に浸透し「玉砕」を強要する中、多くの人に「生きろ」と訴えた。沖縄を救おうとした信念を次世代に伝えたいと思った。俳句大会はそれを具現化した。
 兵庫に加え、島田の部下だった荒井退造・元沖縄県警察部長の故郷・栃木からの投句もあり、沖縄を含めた3県へと絆が広がった。何よりも高校生、中学生ら若者の参加がうれしかった。
 「島田さんの生き方、戦史をよく学んでくれ、沖縄を考えてもらう機会になった。今後も平和を願う句が生まれる会にしたい」
 命を重んじた島田の信念を俳句で表現する。地域、世代を越えた絆は、これからも言葉で伝え続ける。
=敬称略=
(津谷治英)

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