生きることが伝えること 阪神・淡路と東日本の遺族が交流

2013/01/16 23:17

「慰霊と復興のモニュメント」を訪れた東北の被災者ら。(右から)陸前高田市、南相馬市、大槌町の火を持ち寄った=16日午後、神戸市中央区加納町6(撮影・大山伸一郎)

 生きていることが震災を伝えることになる-。阪神・淡路大震災と東日本大震災の遺族らが語り合う交流会が16日夜、神戸・三宮の東遊園地であり、神戸で妻と長女を亡くした男性と津波で長男を亡くした女性が語り合った。家族を失った苦しみ、あの日からの歩み。言葉にならない思いを伝え、手を取り合った。 関連ニュース 長田の「シューズプラザ」 神戸の住宅会社に売却 神戸で全日本広告連盟大会 京都や新潟の取り組み表彰 阪神・淡路大震災劇、再演始まる 石田純一さんも

 交流会はNPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯り」の堀内正美代表理事(62)が企画。東遊園地にあるガス灯「1・17希望の灯り」から分灯した火を、岩手県陸前高田市、同大槌町、福島県南相馬市の3カ所から持ち寄って参加した。
 神戸市北区の会社員、松田浩さん(52)は同市長田区にあった自宅で妻の弘美さん=当時(28)=と長女奈緒美さん=同6カ月=を亡くした。
 2日後、焼け野原になった自宅跡で遺骨を拾った。けれど、遺体を見ていない浩さんは長い間、現実を受け入れられなかった。「朝起きたら、みんな元に戻ってる」。そう信じ、眠りに就いた。数年間は「夢の中を生きているみたいだった」。
 交流会に参加したのは、ずっと東北の被災地が気掛かりだったから。「自分みたいに、全てを失った人が多いんやろな」。この日、伝えたかったのは、18年間かかってたどりついた「生きてるだけでええんや」という思い。
 「家や町は元に戻っても、ずっと戻らないものを抱えて生きてきた。そんな自分は震災そのもの。生きていることが震災を伝えることになる」
 一方、岩手県陸前高田市の団体職員、浅沼ミキ子さん(49)は、津波で長男の健さん=当時(25)=を失った。地震直後、浅沼さんは指定避難所の市民会館で健さんと再会した。だが、写真を撮るため、ミキ子さんが高台へ向かった間に、津波は市民会館をのみ込んだ。
 安置所を巡り、健さんの遺体を見つけたのは10日後。「自分がもっと津波の怖さを知っていれば、助けてやれたのに」。今も悔やみきれない。
 自暴自棄になりかけたミキ子さんを励ましたのは、震災から9カ月後、神戸から分灯され、古里に完成した「希望の灯り」。神戸から通うボランティアの姿に「教訓を伝えていかないと」と気付かされた。
 この日、浩さんら阪神・淡路の経験者と語り合い、涙をぬぐったミキ子さん。「本当に分かり合えて、たくさんの力をもらった。神戸に来てよかった」とほほ笑んだ。
(上田勇紀、中務庸子)

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