「誰かのために」体験語る 姉を亡くした播磨町の女性

2014/01/17 16:40

震災で亡くなった藤田依子さんをしのび、自宅跡の空き地前に集まった(右から)父勝彦さん、母君枝さん、妹貴子さんら=17日午前6時16分、神戸市長田区若松町7

 午前5時46分。まだ暗いまちに人々が集まる。公園や路地にぽつり、ぽつりとろうそくの灯がともる。阪神・淡路大震災から19年の朝。神戸市長田区若松町7の空き地には、この場所で亡くなった太田中学3年の藤田依子(よりこ)さん=当時(15)=をしのぶ妹のフリーアナウンサー貴子さん(31)=兵庫県播磨町=と両親、友人らの姿があった。(三浦拓也) 関連ニュース 「小説の題材尽きず」 作家・村田喜代子さん G7保健相会合 神戸で関連フォーラム続々と 東京五輪へ早くも商機 県内企業「関心ある」3割弱


 JR新長田駅南の復興再開発事業地区。空き地を囲むフェンスの前で、貴子さんと父勝彦さん(62)、母君枝さん(58)がろうそくの明かりをともした。
 傍らで見守ったのは、依子さんの同級生と恩師ら5人。震災翌年から毎年、ここで一緒に祈りをささげる。
 「この日、この場所に立つと自然に涙が出る。姉を思い続けてくれる人がいてうれしい」。貴子さんは声を詰まらせた。
 震災当時は千歳小学校の6年生。自宅は1階がつぶれ、姉だけが下敷きになった。貴子さんと両親は2階で寝ていて無事だった。
 近くでは火の手が上がった。避難した駒ケ林中学校の校庭には、黒いすすがひらひらと舞った。姉の死を聞いた時は、悲しむより、ただぼうぜんとした。
 親戚宅などを転々とし、中学3年の時に播磨町へ転居した。それでも「古里は神戸」との思いは変わらなかった。甲南大学4年の時には「こうべシークイーン」に選ばれた。応募したのは、神戸とのつながりを感じていたかったからだ。
 今、東播磨地域のケーブルテレビ「BAN-BANテレビ」(加古川市)で情報番組の司会を務める。東日本大震災後は、コミュニティーFMで被災地支援の番組を担当した。
 これまで、華やかな舞台に立ちながらも、人前で体験を語ることはなかった。しかし、番組で東北の人々の苦しみに触れるうち、自分の体験を語ることが誰かの役に立つかもしれないと考え始めた。
 「私自身、心に穴があいた状態は今も変わらない。でも19年たって、心に傷があるという現実を受け止められるようになってきた」
 だから、東北の人々に「前へ進もう」とは言わない。「復興」という言葉も軽々しく使えない。
 17日朝、依子さんの思い出を語る家族と友人らの輪には、穏やかな空気が流れた。
 依子さんはアイドルグループのSMAPとお笑いが大好きだった。ソフトボール部に所属し、誰とでも親しくなる明るい性格だった。
 勝彦さんは「娘が結んでくれた縁を大切に、これからも生きていきたい」と話した。
 貴子さんは言う。「1月17日は、いろいろな人の心の中に生きる姉と出会える日」。来年の再会を胸に、震災20年への一歩を歩み始めた。

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