語る20年(3)女優 相武紗季さん
2015/01/04 15:09
東京都内(撮影・笠原次郎)
阪神・淡路大震災は、相武紗季さんが小学3年生、9歳の時。自宅は築1年と新しく、祖父母、父母と姉の一家6人にけがはなかった。
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「ただ、母の無事は幸運だった。激しい揺れで寝室のタンスが母を直撃。父のズボンのしわを伸ばすため、タンスの引き出しにズボンを縦に挟んでいたことが幸いし、左右2列ある引き出しのうち、左側が出てこなかった。右側が開いたままタンスはL字状態で倒れ、そのすき間に母がすっぽりと入った」
自宅周辺の被害は大きく、景色も一変した。その衝撃は今も心に刻まれている。
「揺れがおさまったときは、姉と2階の子ども部屋にいた。窓を開けると、鳥が1羽もいなくて…。回りの建物は倒れ、遠くまで見渡せるようになっていた。木造の家やアパートの1階がつぶれて2階だけ残っていたり、マンションの中層階がつぶれていたり。幼かったので、怖いとかじゃなくて『何が起きたんだろう』と」
「ヘビが走った跡。まさにそんな光景だったことを記憶している。断層上の家だけが全壊し、ライン(筋)のようになっていた。その筋以外は半壊もしていないところもたくさんあった。命を落とすかどうかはほんの小さな違いだった」
被災後、人の優しさに触れた。
「給水のとき、祖父の知人からたくさん声を掛けてもらった。いろんな人が子どもを守ってくれ、大事にしてくれた。それに一生懸命応えようとしていた。おじいちゃんやおばあちゃんにお菓子を分けてあげたりした。そういう心遣いが必要とされていたと思う」
一方で、つらいこともあった。
「母が電車で私たち姉妹をお風呂に連れて行った時、3駅進んだら電車の中からテニスをしている人たちが見えた。私たちは無邪気にはしゃいでいたけど、その光景が母はとてもつらかった、と大人になってから教えてもらった」
「阪神・淡路」後も大きな地震が起きるたび、何か行動したいとの衝動にかられる。
「なるべく人に優しくありたいとか、何かサポートできることはないかと、そういう感情になる。それは多分、自分が被災したときに大人たちがすごく守ってくれて、大事にしてもらったことが深層心理としてあるから。東日本大震災でもチャリティーに出品したり、布や食料などを送ったりした。被災地にボランティアで行く知人らに必要な物資をどんどん渡した」
子ども向けの防災テレビ番組では、プレゼンターを務めた。
「被災しないと分からないこともある。それが少しでも伝わればいいなといつも思っている。防災番組で、訓練をしている子どもたちはすごく楽しそう。危機感で覚えるよりは、楽しんでいることが知識として根付く。大人になっても楽しかったことは残っている。それがすごく大事だと思う」
震災20年を迎えた被災地へのメッセージとして「あしたを信じて」としたためた。
「忘れないこと。話し合うこと。そうする中でつらいこともあるが、それは大事なこと。そうしなければ風化してしまう。その記憶を誰かと分かち合い、呼び戻して、また大事にしていく。そうする中で、明るく元気に生きようと前向きな気持ちになれたら一番いい」(聞き手・笠原次郎)
あいぶ・さき 1985年生まれ。中学と高校で水泳に打ち込む。高校2年のとき、甲子園の高校球児をPRするテレビ番組に出演し、現在の事務所にスカウトされデビュー。女優としてドラマや映画、CMなどで活躍している。