希望のマーチ(1) 八百屋の看板継いだ
2015/01/10 16:03
今年もよろしくお願いします-。田中まり子さん(中央)と父勝三さん(右)、母靏子さん(左)=長田区久保町5(撮影・三浦拓也)
被災地・神戸に、20回目の新年が来た。あなたも、わたしも歩いてきた、7290日のマーチ。
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「いらっしゃい。豆がおいしいよ。旬のもん食べて元気になってよ」「ありがとう。寒なったから、風邪ひかんようにね」
店先で、田中まり子さん(39)の大きな声が響いた。ピンクのジャンパーに、紺色の前掛け姿。行き交う客に声を掛け、話題を振りまく。
「前より声が出るようになった。責任感でたんちゃうの」。父勝三(かつみ)さん(69)が目を細めた。
長田区久保町5、復興再開発ビル「アスタくにづか3番館」地下1階にある「田中青果店」。祖父の故松次(まつじ)さんの代から約80年続く八百屋を、まり子さん、勝三さん、母靏子(つるこ)さん(68)の家族3人が切り盛りする。
店はもともと、近くの「丸は市場」にあった。40店が軒を連ねたが、阪神・淡路大震災でほとんどが焼け、3階建ての店舗兼住宅も灰と消えた。
勝三さんは再起を期す。現実は厳しかった。
「お父さんが店やめるって言ってるよ」
母から聞いたのは、2012年12月ごろだった。母も客から知らされ、驚いたという。
震災後、被災店が集まる共同仮設店舗「パラール」で営業。03年に今の場所に移った。市の担当者が「再開発ビルで一番の場所」と言った地階に客足は向かず、スーパーも相次いでできた。売り上げは震災前の半分以下。靏子さんは持病の腰痛を悪化させた。
父が店を畳もうとしていることは、まり子さんもうすうす感じていた。だが、野菜の加工機械をすでに売り払った父の決断に「ショックを受けた」。
子どもの頃、店にはひっきりなしに客が来た。まり子さんは、籠いっぱいの小芋の皮をむいた。中学時代は制服のまま店頭に立ち、客に「おかえり」と声を掛けられた。
震災の年、短大の卒業を控えていたまり子さんは、春から勤めるはずだった会社から内定を取り消される。別の会社で2年働いたが、店を手伝うために退職した。思えば、生まれてずっと、「八百屋の娘」だった。
正月以外休みなし。毎朝4時半起床。父の年齢を考えれば、きついだろう。でも-。
2年前の正月。震災後移り住んだ垂水区桃山台の自宅に、会社員の兄2人と両親、まり子さんがそろった。おとそをついで、雑煮を食べる。
4歳上の長兄が切り出した。
「店やめるって聞いたけど、どうすんの。お母さんの腰の具合もよくないし、やめた方がええんちゃう」
父は黙っていた。
まり子さんは、意を決して言った。
「私は続けたい。お母さんに負担のないようにするから。頑張ってやっていくから」。だって、ここでやめたら悔しいやん。負けたみたいやん。
父は渋い顔で、黙っていた。
2014年、田中青果店は大みそかまで店を開けた。親子そろって、元気に声を出す。「よいお年を」「来年もよろしくね」
あの時の家族会議で一言も発しなかった勝三さんは、店の継続を決めた。「若いのが頑張るんやったら、手伝わんとな」。うれしそうに言った。
まり子さんは経理を担当し、少しだけど、商品の値付けも任されるようになった。周りの若手商店主らと、お店の仕事を体験してもらう子ども向けイベントを開いたら、結構盛り上がった。
「もっと頑張らんとね」とまり子さん。20年はあっという間だった。復興? そんなのいつのことやら。でも、父と母はがれきの中で踏ん張った。八百屋の看板を下ろさなかった。
次は私。私がやってみせる。(斉藤正志)