ポーアイ第3仮設住民の軌跡 「大正生まれの看板娘」3人がいた
2015/01/14 15:10
阪神・淡路大震災では、被災地に約4万8千戸の仮設住宅が建てられた。あれから20年。支え合った“長屋暮らし”の日々を「家族のようだった」と懐かしむ人は少なくない。ピーク時に230人が暮らしたポートアイランド第3仮設住宅(神戸市中央区)で「看板娘」と呼ばれた3人のその後。(木村信行)
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1冊のノートがある。筆ペンで丁寧に書かれた61人の死者の中に3人の名前がある。
谷山フミ 89歳
藤原文子 95歳
前田みか 100歳
3人はポーアイ第3仮設で「大正生まれの看板娘」と呼ばれた。
住民に笑顔がないのを心配した当時の自治会長、安田秋成さん(89)が「そや、看板娘を選ぼう」と提案した。
住民らは戸惑った。「若い子なんか、おらへんで」
若くはなくても、愛嬌(あいきょう)たっぷりで元気な3人のおばあちゃんがいた。当時、80歳前後で仮設の長老格。「うちらの看板娘が元気にここを出るまでは、みんなで頑張ろう」
これが合言葉になった。
正月はみんなでもちつき大会をした。全国から訪れたボランティアとも交流した。孤独死も出た。仮設解消は1999年6月。将来の不安を抱えながら、支え合った4年間の“長屋暮らし”だった。
「また会えるよね」
3人は笑顔で、市内の別々の復興住宅へ転居した。
「立派な建物やけど、なんか、コンクリートの棺おけみたいや」。最高齢の前田さんがそう漏らし始めたのは転居直後だ。病気ひとつしなかったのに、入退院を繰り返すようになった。
紅茶を入れては近所の人を仮設に招いた社交的な藤原さんも部屋にこもった。
谷山さんは元気にゲートボールに通ったが、遊ぶのは昔の友人。復興住宅では交流が広がらなかった。
元自治会長の安田さんは神戸市兵庫区の復興住宅に当選した。だが、心配が募り、月1回、散り散りになった元住民を自転車で訪ね歩いた。
次第に亡くなる人が増えた。安田さんはノートに記録を残した。名前、年齢、死亡年月日。
「前田さんが電話に出えへん」。藤原さんから安田さんに連絡が入ったのは、転居の数年後。駆け付けると、ベッドから落ち、動けなくなっていた。机には大量の睡眠薬。自殺未遂を繰り返していた。
93歳の誕生会。前田さんがつぶやいた。「生きとってもつまらん」
安田さんは諭した。「天寿をまっとうせんかったら、残された人間は何もできんかったと自分を責める。いずれみんな死ぬ。順番に逝こう」
前田さんは笑顔になった。
「ほなら、私は死ねんね。私が長生きしたら、みんなは順番待ちや」
2010年。ポーアイ第3仮設の元住民が5回目の同窓会を開き、30人が集まった。
つえをついたまま抱き合う高齢者もいた。「元気にしとった?」「家族と再会したような気分やわ」
谷山さんは08年に亡くなっていた。前田さん、藤原さんに長寿のお祝いの花束を贈り、安田さんに閉会のあいさつが回ってきた。
自分も年を取り、今回を最後にしようと決めていた。だが、みんなの笑顔を見て、言えなくなった。
「あと2年で前田さんは100歳。6回目の同窓会でお祝いをしよう」
拍手がわき起こった。
11年、藤原さんは95歳で死去。翌年の9月2日、前田さんは神戸市内の老人ホームで100歳を迎えた。
安田さん夫婦が駆け付け、大好物のバッテラと日本酒をプレゼントすると、少しだけ口を付けた。「元気になったら、約束の同窓会やね」。安田さんが言うと、前田さんはぽつりと言った。
「みんなに会いたいね」
3カ月後、前田さんは静かに天寿をまっとうした。
◇ ◇
それから2年。6回目の同窓会はできていない。「それが心残りで」。妻に先立たれた安田さんが話した。
ポーアイ第3仮設の元住民で安田さんが死亡を確認できたのは61人。転居か死亡かを確認できないのは十数人。元気な人も皆80歳を超えた。
いずれ自分にも「順番」が来る、と安田さん。それまでにもう一度、みんなで同窓会を開きたいと考えている。