震災20年 両親犠牲の地に赴任 神戸・魚崎中教諭

2015/01/16 16:51

震災で両親を亡くした和氣光代さん。授業で体験を伝えている=魚崎中(撮影・後藤亮平)

 阪神・淡路大震災で両親を亡くした神戸市東灘区の魚崎中学校家庭科教諭、和氣(わき)光代さん(47)=同市灘区=が、授業で自らの体験を伝えている。一昨年春、校区内に両親の自宅があった同校に初めて赴任。長い年月を経て体験を振り返れるようになり、生徒に「あなたたち一人一人の命はかけがえのないもの」と語り掛けている。(斉藤正志) 関連ニュース 九州豪雨 被災地支援へ準備本格化 兵庫県内 子育て世代の防災冊子作製 神戸市とP&Gが協力 9カ国の行政職員 神戸・新長田のまちづくり視察


 倒壊し、1階部分がつぶれた両親の2階建て住宅。生徒に当時の写真を見せながら、「私の父と母は家が壊れて亡くなりました」と話し、住宅の耐震補強の大切さを強調する。
 10年ほど前から、家庭科で住居を学ぶ授業の際、両親のことに触れるようになった。道徳の授業でも生徒に命の大切さを話す。
 20年前、両親は東灘区魚崎北町で暮らし、和氣さんも近くに住んでいた。地震後に駆け付け、夫が2階の窓から入って床をはがした。1階寝室から「助けて」と母の声が聞こえた。一緒に寝ていた父の反応はなかった。
 母は地域の会館に運ばれた。青かった唇は少しずつ赤みを帯び始め、おろおろする和氣さんをたしなめるほど回復した。
 しかし午後になり、母は急に歯を食いしばってうなり始めた。和氣さんが声を掛けても返事ができない。医師が来てくれたが、手の施しようがなかった。
 午後3時52分、こわばっていた顔が緩み、静かになった。母にすがりついて泣いた。
 震災後、両親の位牌(いはい)の前で、長時間ぼうぜんと座り込むようになった。「何をすれば生き返るのか。何でもするから」と、ひたすら考え続けた。
 翌年、妊娠が分かった。産婦人科の検診で、まだ見ぬわが子の心臓が動いているのを見た。あれだけ求めていた命が、ここにある。おなかをさすり、感動に震えた。1997年、長女を出産。2002年に長男も誕生した。いつしか両親の死を受け入れていた。
 「震災当時は、10年後に普通に生活できる自分が想像もできなかった」と和氣さん。両親ゆかりの地に赴任したことに縁を感じ、体験を伝えなければといっそう意識するようになったという。
 「誰でも、家族や友人など大切に思ってくれる人が絶対にいる。命には代わりがない。生きることの大切さを伝えたい」

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