母の証し、愛した神戸に 震災犠牲者銘板に名前追加
2018/12/13 13:05
長女麦さんに母岡西ヨリ子さんの思い出を語る藤原雄大さん=尼崎市
阪神・淡路大震災で亡くなった人たちの名前を刻む「慰霊と復興のモニュメント」(神戸市中央区)に15日、新たに7人の名前が加わる。その中には兵庫県芦屋市内で亡くなった岡西ヨリ子さん=当時(57)=の名前もある。「神戸は母にとって思い入れの深い場所。お世話になった知人友人に思い出してもらえたら」と、同県尼崎市に住む次男の会社員藤原雄大(たかひろ)さん(48)。あの日、胸に残ったわだかまりとともに、母をしのんだ。(竹本拓也)
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藤原さんは同県尼崎市で生まれ、両親が新聞販売店を営んでいた神戸市灘区や芦屋市で暮らした。震災があった1995年は25歳。一家で住んでいた芦屋市三条南町の自宅が全壊。当時室内にいた藤原さんと弟はつぶれた1階からはい出たが、兄弟のそばで寝ていたはずの岡西さんから声が返ってくることはなかった。
「何もらってきたん?」。1月16日未明、友人の結婚パーティーから帰宅した藤原さんに気付き、岡西さんが声を掛けた。「夜中やし。寝とけ」。ぶっきらぼうに出た言葉が、親子の最後の会話になった。17日未明も帰宅が遅く、言葉を交わすことはなかった。
救助を待つ間、後悔の気持ちに襲われ錯乱状態になった。屋根上から助けようとしたが、母の布団すら見えなかった。スエット姿のまま、はだしで立ちすくんだ。「今も土壁のにおいが苦手。全てがよみがえってくる」と唇をかむ。
◇
身長166センチと、比較的背丈の高い母と並ぶのが恥ずかしく、小学4年になると一緒に外出するのを嫌がった。だが、高校3年の冬、神戸市灘区の新聞販売店でアルバイトした際、所長から「あんたは筋がいい」と褒められた。同区内に住んでいたときの家業が新聞販売店だったと話すと、店が違うにもかかわらず、所長は「あんたのお母さんのこと、この辺で知らん人おらんで」と驚いた。
人望が厚く、誰とでも友達になった。地区で500件の契約を取った。地域で一目置かれていた母の評判に初めて触れ、誇らしい気持ちになった。
震災後2回だけ、母の夢を見た。1回目は震災から1カ月後。「あとは頼んだで」と力強い声を掛けてくれた。2回目は妻の香さん(47)と結婚した2008年。「幸せにな」と背中を押してくれた気がした。
その2年後に生まれた長女麦さん(8)の名は、農作業の「麦踏み」から取った。人生はつらいことの方が多い。「踏まれても踏まれてもたくましく、後悔なく生きてほしい」と願う。
数年前、神戸で震災の犠牲になった級友たちの名前がモニュメントに刻まれているのを知った。「母がいたことも神戸に残したい」との思いを強くした。被災場所、尼崎市内の墓園など、毎年家族で巡る母ゆかりの場所に、新たな地が加わる。2回目の夢から10年が過ぎた。銘板が掲示される15日、こう語りかけるつもりだ。「夢の中でいいから、いつでも帰ってこいよ」