「ここにいたこと 宝塚の118人」(1)船越明美さん プロ棋士目指す次男が犠牲に

2020/01/16 05:30

昨年11月、次男の隆文さんが亡くなったアパートがあった土地を訪れた船越明美さん。毎年1月17日に参ってきた=宝塚市清荒神1

 昨年2月、兵庫県宝塚市に1人の女性から手紙が届いた。 関連ニュース 尼崎市で8人、芦屋で1人が新型コロナ感染 西宮市が新たに10人の感染発表 10歳未満から80代の男女 尼崎で新たに8人感染、1人死亡 新型コロナ

 「プロ棋士になる夢と希望を持ち福岡より旅立った息子は、九カ月という短い間でしたが宝塚という地で充実した日々を送っていたことでしょう。その思い出の跡地には家が建つことになり、来年からは献花ができなくなりました」
 手紙を書いたのは、福岡県太宰府市の船越明美さん(72)。宝塚市で一人暮らしをしていた次男の隆文さん=当時(17)=を阪神・淡路大震災で亡くした。毎年1月17日、隆文さんが最期にいたアパートの跡地を参っていたが、宅地開発が決まり、もう行くことができない。手紙はこう続く。
 「宝塚の皆様にお願いがあります。ゆずり葉緑地の碑に名前を残していただけないでしょうか。これからも将棋の道をこの宝塚で、棋士の方々と共に歩ませてあげたいと思うのです」
 思いを受け、宝塚市は震災犠牲者の名を刻む「追悼の碑」を、ゆずり葉緑地(同市小林)に建立する。

■隆文のこと覚えていて
 隆文さんは16歳で宝塚に来た。高校在学中に、「将棋のプロになりたい」と、大阪の研修会で出会った宝塚在住の森信雄七段(67)に弟子入りした。
 福岡県大野城市で生まれ育ち、小学校ではバスケットボールに打ち込んだ。「やり出したらとことんするタイプ」で、努力してキャプテンも務めた。けがで練習できなくなった時、父や兄の影響で将棋を始めた。
 かつて画家を目指した明美さん。「好きなことを職にしてほしい」と棋士を志す息子の背中を押した。未成年なので電話で毎晩様子を聞き、モーニングコールを欠かさなかった。宝塚を訪ねれば、ご飯を作ったり、掃除をしたり。2人で近くの喫茶店にも行った。
 心優しい隆文さんは「お母さん、僕のためにしてくれてありがとう」とよく言ってくれた。福岡を離れて約9カ月。震災前日の電話でも「僕、もっと頑張るけん」と口にしたという。
 そして1995年1月17日。午前6時すぎ、いつものように隆文さんにモーニングコールをしたが電話がつながらない。テレビを付けると地震のニュース。不安が押し寄せた。大阪の将棋会館に電話すると「宝塚は大丈夫ですよ」と言われたが、その数時間後「亡くなった」と連絡があった。
 隆文さんの遺体は体育館に安置された。崩れたアパート1階の部屋で下敷きになったと聞いた。明美さんは体の震えが止まらず、アパートに向かえなかった。
 「どうやったら命を代えてやれるやろ」。毎日のように足をどんどん踏みならし、泣き叫ぶ日が続いた。震災前のように、博多駅から大阪方面の新幹線に乗れない。命日は、自宅や近所のお寺で手を合わせた。
 震災後に初めて宝塚を訪れたのは2004年。震災から9年後、隆文さんが生きていれば26歳となる誕生日だった。26歳はプロ棋士になれる最後の年齢。「息子が信念を持って将棋をしていた場所で、自分ができることをしたい」と、宝塚・売布の公民館で明美さんは描いた絵を展示し、隆文さんの似顔絵も飾った。
 それからは体の震えと戦いながら、隆文さんが亡くなった清荒神のアパート跡地で1月17日を迎えるように。大家さんが、空き地のままにしておいてくれた。家族や師匠の森さん、ともに励んだ門下生と一緒に訪れ、「この辺が通路で、ここが入り口、このあたりに隆文の部屋やったな…」と当時をたどる。「将棋ができれば後は何にもいらん」。この場所を選んだ隆文さんの声が聞こえてきた。
 明美さんは昨年11月にも、宝塚のアパート跡地を訪れた。大家さんが亡くなり、新しく家が建つ。もう立ち入れない空き地の前で涙を流した。「隆文も頑張るけんって言ってたし、私も頑張らないけんね」
 宝塚市に宛てた手紙は何度も書き直した。「夢を持って努力していた隆文のことを、みんなに覚えていてほしい」。自分がいなくなっても、残り続ける名前に願いを込める。(小谷千穂)
     ◆     ◆
 阪神・淡路大震災で命を落とした宝塚市民は118人。そのうち遺族が望んだ72人の名が初めて碑に刻まれ、震災から丸25年となる17日に除幕される。21人の遺族は刻銘を望まなかった。それぞれの歩みと、今、名前を残すことの意味を聞いた。

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