震災25年語る 妹家族と同居の父亡くした林さん
2020/01/17 05:30
米寿記念に父清十郎さんに贈られた船の模型を手に、思い出を語る林照夫さん=洲本市宇原
阪神・淡路大震災から17日で丸25年を迎える。震災で大切な家族や友人を亡くした人々はこの四半世紀、それぞれの故人への思いを胸に生きてきた。「身代わりになって生かしてくれた」と感謝し、「震災がなければもっと生きてくれていたのに」と悔やむ。そんな遺族や被災者とともに、これからも震災を語り続けたい。次代に記憶をつなぐために。悲しみを繰り返さないために。(高田康夫)
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兵庫県洲本市宇原の林照夫さん(83)は父清十郎さん=当時(92)=を神戸市東灘区で亡くした。
清十郎さんは同市垂水区で暮らしていたが、妻を亡くし足腰も弱ってきたため、子どもらは季節ごとに淡路島や北海道などで一緒に生活することを決めていた。震災前年は秋まで洲本市の照夫さん宅に数カ月おり、その後は東灘区に住む照夫さんの妹家族とともに過ごしていた。
地震で木造アパートは倒壊。ベッドで寝ていた清十郎さんに柱が倒れかかった。すぐに助け出され、近くの医院に運ばれたが、そこで息を引き取った。連絡を受けた照夫さんは津名港から船に乗り込み、駐車場に寝かされた清十郎さんと対面した。
「洲本で過ごしていれば生きながらえたのに」とも思ったが、すさまじい揺れでも妹家族6人は無事だったことに、「父が命を落とすことで、妹家族の命を助けたのかもしれない。それもまた運命だったのか」
外国航路の貨物船に乗り込み、調理師として働いていた清十郎さん。戦時中は魚雷が船をかすめたり、下船した直後に沈没させられたりと危険な目にも遭った。終戦後も世界を回り、「港のあるところは世界中行った」と胸を張る清十郎さんの姿が目に焼き付く。
「震災がなければ、毎晩酒を飲みながら100歳までは生きていただろう」と照夫さん。「25年がたち、当時の大変さを思い出す。二度とあんな災害は起きてほしくない」