あれから四半世紀、消えない無念 遺族の声

2020/01/17 14:37

目に涙を浮かべ、慰霊碑を見つめる女性。思いがあふれる=17日午前6時22分、神戸市長田区御蔵通5(撮影・大森 武)長田・御蔵北公園

 6434人が亡くなり、3人が行方不明になった阪神・淡路大震災は17日、発生から25年となり、各地で追悼行事が営まれた。神戸・三宮の東遊園地では約5千本の竹灯籠に、亡き人の面影が重なった。「僕もお母さんが亡くなった年と同じ47歳になったよ」。四半世紀の時が流れても、亡き人の無念は消えず、亡き人への追慕も変わらない。この日一日、被災地は祈りに包まれる。 関連ニュース 「お母さんと先に避難しとけ」父の最後の言葉 助けられなかったこと、今も悔やむ 「母と息子が埋まってる」静まりかえった街を靴下で走った 「なぜ、あのとき抱いてやらなかったのか」今も悔い 消えかける長男の文字、消えない人の絆


 妻の直美さん=当時(36)=と生後6カ月の三男祐太ちゃんを、当時自宅があった兵庫県西宮市屋敷町で亡くした会社役員小林祥人(ひろと)さん(64)=神戸市灘区(西宮市の西宮震災記念碑公園で)
 「自分がいつおらんようになっても恥ずかしくない子に育てんと」。それが口癖やったね。しつけに厳しい、気の強いお母さんでした。でもまあ、そんなところにひかれたんやけど。あの日も、がれきの下で意識を失うまで「お父さんの名前を呼びなさい!」と、一緒にいた長女を励ましていたんやってね。
 息子2人と長女は立派とは言えないけど、いい子に育ったよ。子どもたちの弁当作りを頑張ったなあ。25年たって、すっかり料理上手になってもた。今も同居する長女の孫たちと合わせて6人分のおかずを用意してるんやで。
 いつか孫も一緒に連れてここへ来るね。
     ◇     ◇
 義母の関ハルさん=当時(63)=と長女の瞳ちゃん=当時(1)=を亡くした竹場満さん(54)=神戸市灘区(神戸市中央区の東遊園地で)
 あの日は近所にある妻の実家で、義母と長女が一緒に眠りについていた。長女は前の日まで2階で寝ていたんだけど、生まれたばかりの長男が夜泣きしちゃって、義母が「私がこの子(長女)を見てあげる」って1階に下りて。その1階がつぶれてしまった。義母がとっさにかばってくれたのか、長女の体はほとんど無傷の状態だった。
 長女は「ママ」とか「マンマ」とか少しずつしゃべりだして、震災の何日か前、よちよち歩きを始めたところだった。今、長男には3歳と1歳の子どもがいてね。同じ年頃の孫たちを見ていると長女を思い出す。顔がよく似ているから。どんな形であっても、生きていてほしかった。
     ◇     ◇
 母の久美(ひさみ)さん=当時(59)=を亡くした西谷秋久さん(50)=東京都渋谷区(東遊園地で)
 西宮市にあった木造2階建ての実家は全壊。2階で寝ていた父親は助かったが、母親は1階で下敷きになり亡くなった。テレビで知って東京から何百回も電話をかけたけど、つながらなかった。ニュースで母親の名前が流れても、「同姓同名だろう」とかすかな望みを抱いた。でも翌日、親戚から亡くなったと聞いた。
 迷惑を掛けても、何をやっても許してくれる優しい人だった。震災前の年末年始は仕事で帰省できず、ちょうど落ち着いた17日に「いつ帰ろうか」と電話で相談をするつもりだった。
 今も骨の一部はつぼに入れて枕元に置き、いつも声を掛けている。当時はまだ若くて子どもっぽかったけど、もうこんなに大人になったよ。おっちゃんになっちゃったよ、ママ。
     ◇     ◇
 妻の静子さん=当時(68)=を亡くした徳田秀夫さん(84)=神戸市須磨区(東遊園地で)
 10歳ほど年上の君はしっかりしていて、家庭的で優しかった。結婚して40年が過ぎ、「金婚式を目指して頑張ろう」って話もしていたよね。
 あの日もいつも通り、始発電車で勤務先の西宮郵便局に向かっていた。揺れで電車が脱線し、局まで歩いたな。君と連絡がつかなかったから職場で自転車を借り、当時住んでいた長田区の自宅まであちこち回り道しながら2時間半かけて戻った。でも家は全壊。がれきの中から君が掘り起こされたときは、変わり果てた姿を直視できなかった。
 あの日以来、時間は止まったまま。再婚の話も4回くらいあったけど、君を愛していたから断った。歩ける間はつえをついてでも、ここに会いに行きますよ。
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 義母の春江さん=当時(83)=を亡くした和住(わずみ)洋子さん(72)=神戸市灘区(神戸市灘区琵琶町1、琵琶町公園で)
 結婚後に同居して25年くらいで震災が起こり、今、それと同じくらいの年月が過ぎたんやね。明治生まれなのに英文タイプを学んだ芯のある人だった。
 戦前に建てられた木造2階建てで、義母は崩れた1階に寝ていた。直後に2階から呼び掛けたときは応答があったのに、しばらくすると声がしなくなった。
 これからどうやって生活していくかという戸惑いが大きかった。3月になって避難所を出て借家に移り、親戚に預けていたお骨を戻したとき、やっと悲しむことができるようになった。
 毎年ここに来ている。震災の記憶を覚えておいて伝えていくのが大事だと思うものの、悲しいことはあえて忘れて先に向かっていきたいという気持ちもある。

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