(1)奥尻島 津波に消えた古里、復興26年の軌跡
2019/10/29 11:26
地震から一夜明けた青苗地区。島の先端まであった集落を津波がなぎ払った=1993年7月13日
深刻な自然災害が起こるたび、私たちは新たな課題に直面する。人口減少と高齢化が進むこの国において、真の復興とは何か、災害に強い社会をどう築くのか。阪神・淡路大震災から間もなく25年。論説委員が全国の被災地を歩き、考える。最初に訪れたのは、26年前に巨大津波に襲われた北海道奥尻島。被災前から過疎と1次産業の衰退にもがいてきた島は、多額の義援金で「スピード復興」を果たした。東日本大震災で再び注目された奥尻の経験が語るものは-。(小林由佳)
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函館発の小型プロペラ機は、台風から変わった温帯低気圧にもまれて揺れに揺れた。約30分後、やっとの思いで奥尻空港に降り立った。
古いアイヌの言葉「イクシュン・シリ(向こうの島)」が島名の由来という。イカ、ウニ、アワビに代表される漁業と観光業が基幹産業だ。1993年の北海道南西沖地震は、島の外周84キロのうち14キロを巨大な防潮堤が覆う姿に変えた。
島南端の青苗地区に向かう。青苗漁港を擁し、地震で最も大きな被害を受けた地域である。
海岸線に沿って張りついていた家々は津波にさらわれた。島の先端部周辺は今、公園になっている。家を流された漁師らは海沿いにかさ上げして造成された宅地に移り住んだ。カラフルな家がゆったりと並び、郊外のニュータウンといった趣だ。
だがよく見ると、ぽつぽつと空き家がある。目抜き通りの商店街では、立派な造りの店の多くが閉まっていた。人通りは少ない。
ふいに神戸の光景が浮かんだ。阪神・淡路の復興事業で建てられたJR新長田駅南の再開発ビル。シャッターの目立つ商業スペースの情景が重なったのだ。
■人口減恐れ支援急ぐ
「生活再建を急がないと住民が島から出て行ってしまう。だから義援金で手厚い支援をした。その判断は間違いではなかった。実際、人口流出は止まった。いったんはね…」
町役場で新村卓実(しんむらたかみ)町長(66)はそう言って、言葉を切った。震災当時は町会議員を務めていた。
人口4700人の島に全国から190億円の義援金が集まった。
まず見舞金として計40億円を島民に配った。133億円で復興基金をつくり、73の助成メニューを用意。島内で家を再建する世帯には最大1480万円を支給した。災害の規模が異なるとはいえ、義援金配分が1世帯当たり最大数十万円だった阪神・淡路とは比べようもない。
漁業者への支援も破格だった。被災していない漁船も更新の対象となり、木造船は最新鋭のFRP(繊維強化プラスチック)船に一新された。格安のリース料を払えば、数年後に自分の船になった。
震災から5年足らずの98年3月、町は「完全復興」を宣言する。ハード整備で見違えた島は復興の成功例と評された。
そして今-。
人口は2600人。4割減った。復興関連工事が収束すると、島外に職を求める人が再び増えたからだ。漁港も漁船も刷新されたが、409人いた漁業就業者は138人に激減した。防潮堤や高台への避難路などの防災インフラは経年劣化で大規模補修が必要になっている。使用禁止の避難階段もあった。
青苗漁港で網の手入れをしていた漁師(51)は言った。「イカもホッケも取れなくなった。温暖化で海水がぬるいもの。頑張れば何とかなるというレベルを超えている」。漁業のさらなる衰退は商業や観光に影を落とす。空き店舗が並ぶ青苗の商店街はその象徴だ。
「働く場をつくらないと本当の意味での復興は難しい。10年、20年先を見据えた産業振興は震災前からの課題だった。復興基金を使い切らず、残しておけばと悔やまれる」と新村町長。東日本大震災後、被災自治体から視察団を迎えるたび、「苦い教訓」を隠さず訴えてきた。
町の元総務課長、竹田彰さん(66)は震災当時、復興対策室係長だった。仮設住宅を一軒ずつ訪ね、移転先などの意向を聞いた。できるだけ希望に沿うよう努めたという。
「高齢化が進み、新しい造成地にいずれ空き家が出ることは当時から分かっていた。だからといって、一軒家に住み慣れたお年寄りに無理やり復興公営住宅に入ってください、とは言えない。そんなことをしたら高齢者まで島を去ったかもしれない」。竹田さんは振り返る。
復興とは何なのか。国の防災基本計画は、「迅速な原状回復」が復旧であるのに対して、復興は「中長期的な課題の解決をも図ること」と記す。阪神・淡路と東日本などの被災地は「創造的復興」を掲げた。
高齢化、若者の流出、漁業不振…。奥尻の課題は東日本の被災地とも共通する。どれも一つの町では解決できない。完全復興などというものは、多分ない。
「右肩上がり」はもう望めない。これからは、縮小を前提にまちの将来像を描く必要に迫られるだろう。私たちは、縮む社会に勇気を持って向き合えるだろうか。奥尻の経験は、その難しさを物語る。
■次世代が始める挑戦
新たな動きにも出合った。
その一つがワインの生産だ。復興特需で社員を増やした建設会社が雇用維持のためにブドウ栽培に乗りだし、2008年、島西部にワイナリーを完成させた。「奥尻ワイン」の名で年6万本を出荷する。ワイナリーは観光スポットになった。
島で唯一の高校、北海道奥尻高校には島外からの進学者が増えている。16年に道立から町立に移管され、全国から生徒募集を開始。普通科ながらスキューバダイビングの資格が取れる授業など独自色を打ちだし、寮も建てた。
62人の全校生徒のうち32人は京都や岡山、東京などの島外出身者だ。島での就職を希望する生徒も出てきた。「潜水士の資格を取って奥尻で漁師になるのが夢」と北海道北広島市から来た2年生の生徒(16)。何とか実現させようと、町役場と高校が支援体制を検討している。
「育てる漁業」に取り組む若手漁師たちもいる。11年、漁業協同組合青年部が岩ガキの養殖を始めた。種付けから出荷まで4年かかるが、メンバーは「ウニやイカと並ぶ観光の目玉に育てたい」と意欲を燃やす。
役場近くのフェリーターミナルでイタリアンレストランを経営する工藤哲史(たかふみ)さん(42)は20~40代でつくる「奥尻島チーム島おこし」を引っ張る存在だ。神戸でも料理を修業し、4年前に島に戻った。食や音楽のイベントなどを開く。
「今住んでいる若い人に自分の島を好きになってほしい。新しいことをしようとすると否定する年配の人は多いが、気にしない。これからを担うのは自分たちだから」
通底するのは島への愛着。一筋の光明を見た気がした。
【1993.7.12 北海道南西沖地震】阪神・淡路大震災の1年半前に起きた北海道南西沖を震源とするマグニチュード7.8の大地震。最大の被災地となった奥尻島にはわずか数分で津波が襲来し、高さは最大30メートルにも達した。火災や大規模な山の崩落なども発生。島内の死者・行方不明者は198人、全半壊は530世帯に上った。