【3ー1】危機管理 「迅速な全容把握」なお途上
2019/11/02 11:09
地震発生直後から同時多発した火災。炎と黒煙が市街地を覆い尽くした=1995年1月17日午後4時ごろ、神戸市長田区大丸町、大丸山公園から
1995年1月17日午前10時。地震発生から既に4時間が経過していた。兵庫県知事の貝原俊民=2014年死去=が登庁してからは1時間40分。
「この連絡をもって災害派遣要請としてよろしいか」「よろしくお願いしたい」
陸上自衛隊側からの電話に県の防災担当職員は答えた。後に「史上最大の派遣」と呼ばれた阪神・淡路大震災における自衛隊の活動。従事した隊員は陸海空で延べ224万人を数えた。
「危機管理」という言葉は、阪神・淡路大震災をきっかけとして急速に社会へ浸透していった。ただその理由は、あくまでも初動対応の「失敗」にあった。政府の非常災害対策本部会合が開かれたのは発災から5時間半後。記者会見資料には「死者1人」と記されていた。国と自治体は批判にさらされる。
神戸市長の笹山幸俊(故人)が市役所に入ったのは午前6時35分。芦屋市長の北村春江は同7時に到着し「死者は100人以上出ます」との報告を受ける。発災から1時間15分ほどたっていた。同じころ、貝原は県庁から3キロ離れた知事公舎にいて、電話のつながった副知事に災害対策本部会合の招集を指示した。
震度7を2度記録した16年の熊本地震。自衛隊への派遣要請は午後9時26分の前震発生から1時間14分後だった。「危機管理の失敗」と批判された阪神・淡路の教訓が生かされた局面だったと言える。
40人。24年前、午前8時半までに兵庫県庁へ登庁した職員数だ。午後2時を回っても、集まった職員は20%程度だった。あの日の課題は、今なお問われ続けている。
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被害の全体像を迅速に把握することは、災害における危機管理の要諦だ。大枠が見えなければ、救援物資の配送やボランティア、そして自衛隊の派遣先に優先順位を設ける「支援のトリアージ」が機能しない。発災後24時間以内に情報をつかむことが重要となる。しかし、9月の台風15号を巡る政府の対応は物議を醸すことになった。
「最大の挑戦は少子高齢化への対応。誰もが思う存分、能力を発揮できる1億総活躍社会を創り上げる」
9月11日、首相官邸。首相の安倍晋三は記者会見で強調した。2日前に上陸した台風15号の被害に触れたのは冒頭約1分間のみ。千葉県の約30万戸で停電が続く中、第4次安倍再改造内閣が予定通り発足した。
20年前、茨城県東海村の核燃料加工会社で日本初の臨界事故が起きた。当時の首相小渕恵三(故人)は、その翌日に予定していた内閣改造を3日間延期。事故の収束を最優先した。
「組閣を延長してでも台風対応を優先すべきだった」。兵庫県立大大学院減災復興政策研究科長の室崎益輝(よしてる)(75)は、内閣改造が対応の遅れにつながったと指摘する。「非常災害対策本部も設置していなければ被災の情報は得られない。行政は最悪を想定して積極的に動く必要がある」と訴える。
続く台風19号で、安倍は15号の際には開かなかった関係閣僚会議を開催し、「万全の対策」を指示した。しかし、19号上陸の翌日時点で判明した死者数は14人。その後、日ごとに増えていった死者・行方不明者数の15%に満たない。被害の大まかな全容をつかめなければ、いくら初動が早くても実効性のある危機管理とは言い難い。=敬称略=