【3】怒鳴られても仕方ない シャッターを切った 社会部記者(当時)松岡健文化部長
2019/11/20 11:32
不安そうな表情で話し込む住民。その向こうに延焼する火が見える=1995年1月17日午前、神戸市灘区新在家北町2
箱の中のフィルムが増えていく。神戸市中央区のJR三ノ宮駅南にある、神戸新聞会館2階の編集局。街で撮影し、巻き上げてカメラから出したフィルムは、片隅の箱に入れるよう指示された。だが現像される気配はない。壁が崩れ、窓ガラスが散乱する社屋を目にすればそれもうなずける。所属していた社会部は停電で薄暗い。窓からの光で、今見てきたことを原稿用紙に書き始めた。
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巨大な何者かに部屋をわしづかみにされ、力いっぱい振り回された。地震というよりそんな感じだった。気づくとたんすの下敷きになっている。苦しくて動けない。力を振り絞って隙間をつくり、何とか外に出た。ガラス棚や冷蔵庫が倒れ、飛び出た食器が割れている。余震。怖くて壁にへばりつく。自宅は神戸市東灘区住吉本町のマンション3階。1階で隣人がカーラジオのニュースを聞いている。「神戸は震度6」。そのときは阪神・淡路大震災の呼称もなかった。後に史上初の震度7となる。
少し明るくなった。向かいの民家が3軒とも倒壊している。遠くに火が見える。黒煙を数えると10本あった。自宅の周りを歩く。丸ごと投げ出されたような家。大きな地割れ。ガスの臭い。JR住吉駅前のコープこうべ本部ビルが倒壊していた。歩いて三宮方面に向かうことにした。
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国道2号付近を西へ。東灘区と灘区の境にある石屋川で、バケツリレーを撮影する。灘区では、見通す限り家屋と電柱が傾いた道が続く。1台も消防車が来ない火災を初めて見た。サイレンの音もなく、不気味に静まり返る。燃える様子を住民が見守り、輪になって話し込んでいる。カメラを向けにくい。怒鳴られても仕方がないと思いながらシャッターを切った。別の場所では、高校生ぐらいの少女がしゃがみ込み、火の手を前に「お母さん!」と叫んでいた。その姿は今も忘れられないが、写真を撮ることはできなかった。
阪神電車の新在家駅と大石駅の間では、脱線した電車から乗客を救い出す作業中だった。そこで同期入社の記者と偶然会い、彼の車で三宮に行く。大きなビルが横倒しになったがれきの街は映画のセットのようで、まるで現実感がない。本社に着いたのは午前11時ごろだった。