【4】震源地近くから一報 「富島は壊滅状態です」 淡路総局員(当時)松井元報道部デスク

2019/11/27 12:40

倒壊した家屋から住民を救出するため、懸命に活動する人たち=1995年1月17日、淡路市富島

 「島を北上するにつれて被害が拡大している。北淡町(現兵庫県淡路市)富島(としま)地区は壊滅状態です」 関連ニュース <輪をつなぐ校舎へ>(4)防災教育 海を越え、思い重ねる 賀集小元校長・中田さん(下) <輪をつなぐ校舎へ>(3)学校再開 いつもの場所が癒やしに 賀集小元校長・中田さん(上) Uターンラッシュ本格化 中国道の宝塚西で渋滞10キロ、山陽道神戸JCTは20キロ

 阪神・淡路大震災の発生から数時間後。震源に近い淡路島北部の町にたどり着いた。約25キロ南にあり被害を免れた洲本市の淡路総局へ、慌ててそう連絡した。
 多くの木造家屋が倒壊していた。そこら中に壁土のほこりが舞い、町全体が茶色く見える。
 「もっと詳しく説明してくれ」。受話器の向こうから、総局デスクのいら立った様子が伝わってくる。揺れによって、約750棟の住宅や商店が並ぶ町の中心部がどう破壊されたか、見たままを伝えた。
     ◆
 報告を終えると、車からカメラとノート、ペンを取り出し、大破した住宅密集地の路地に入った。両側から倒れてきた住宅や商店の屋根、壁、柱が道をふさいで通れない。仕方なくがれきの上を歩く。壊れた町の中は異様に静かだ。周囲を見渡すと、住民が壊れた自宅の前でぼうぜんと立ち尽くしていた。倒れた住宅から貴重品を取り出す人もいた。
 「寝室はこのへんのはずや!」。必死に叫ぶ声が聞こえた。近づく。倒壊した家の中から警察官らしき数人が、下敷きになった住民を、毛布のような物を担架代わりにして抱えて出てきた。生死は分からない。ただ夢中で写真を撮った。
     ◆
 夕方、北淡町役場に行くと、隣接する町民センターに、被災した住民が着の身着のままで大勢避難していた。不安と安堵(あんど)が入り交じる中、毛布にくるまる人々にカメラを向けた。写真を撮るのか-と言わんばかりの厳しい視線を浴びた。
 同じセンターには、遺体も運び込まれていた。同町では39人が亡くなった。中心部の甚大な被害を見た直後だけに、ふと「その程度で済んでくれたのか」と思いかけた。が、すぐに心の中で打ち消した。
 亡くなった人の中に、懇意にしていた男性の小学校長がいたことを後日知った。温厚な優しい人で、児童からの信頼も厚く、取材に行くとよく雑談の相手をしてもらった。親しい人の死に、39人の命の重さを思い知らされた。
 亡くなった人たちの人生を思い、翌日以降も被災地を巡った。

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