【9】何のために書くのか 被災者から教わった 阪神総局記者・宝塚市担当(当時)小山優報道部デスク  

2020/01/08 11:30

西宮中央体育館に避難した人々=1995年1月17日、西宮市河原町(撮影・阪神総局員)

 1月17日は3連休明けだった。担当する兵庫県宝塚市長選の告示が、5日後に迫っていた。当時入社4年目で、連載記事を仕上げるため連休返上で執筆。西宮市和上町の阪神総局からJR西ノ宮駅(当時)近くの自宅に戻り、ベッドに潜り込んだのは、17日の午前3時を回っていた。 関連ニュース 西宮市のまちづくり理念「文教住宅、平和非核、環境学習」3都市宣言の節目祝う 式典に650人 さんだ農業まつり盛況 即売会、ステージに1万5千人 三田牛の競りは最高額480万円、ドローンのデモ飛行も 甲子園球場でPV、阪神ファン1万3千人が声援 日本一持ち越しにファン「明日やな」 日本S第6戦

 「久しぶりにゆっくり眠れる」。どれぐらいたっただろう。突然、引っ張り回されるような激しい揺れ。テレビが転げ回る。まだ夢と現実のはざまにいると、玄関を激しくたたく音がした。「大丈夫ですかっ!」。隣人だった。玄関を開けると、街並みは数時間前とまるで変わっていた。見渡す限り、住宅は倒壊。自宅前では血を流した女性が座り込み、家族の介抱を受けていた。慌てて倒れたタンスから服を引っぱり出し、車で西宮消防署を目指した。
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 見慣れた国道沿いの建物がない。時折、どこにいるのか分からなくなった。消防庁舎に着くと、電話が鳴り続けていた。直接助けを求めに来る人もいた。「1歳の子が下敷きになった」。「父親が動かない」。隊員は「声は?」「反応は?」と確認。反応がないと聞くと、「早く行くから、それまで自分たちで何とかしてほしい。これだけの人が待っているんです」。隊員が示した通報のメモは、山積みになっていた。
 1日で数え切れない遺体を見た。少しの備えがあれば、救えた命があった。奇跡的に救われた人もいた。悔しさ、もどかしさ、悲しみ、喜び…。さまざまな感情に襲われた。
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 本社機能が壊滅し、初日の夕刊は4ページ。地域面が戻ったのは2月14日だ。取材しても、載せる紙面がない。それでも取材せずにはいられなかった。使命感というより習性だったと思う。日々、避難所に足を運んだ。多くの施設は取材拒否だったが、神戸新聞だけは迎え入れてくれた。
 「あんたの会社も大変やろう」。年配男性がおにぎりを一つ差し出してくれた。長い列に並ばなければ、救援物資をもらえなかった頃だ。冷たいおにぎりを頬張りながら、話を聞かせてもらった。家を失い、寒い避難所で新聞を待っているという。
 何のために書くのか。あの時期、記者にとって最も大切なことを教わった。

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