【10ー2】悼む 一人一人の犠牲と向き合う
2020/01/11 11:12
森渉さんの母、尚江さん(左)に渉さんの思い出を聞く神戸大学メディア研の森岡聖陽さん(中央)ら=京都市東山区本町
「家が崩れたのは増改築が原因だったのでしょうか」
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阪神・淡路大震災から4年後の1999年3月3日午前。加賀翠(64)は神戸市東灘区森南町1の自宅で神戸大大学院生らに問い掛けた。
自宅は70年に建てた木造2階建て一軒家。加賀は日本舞踊の指導者で、78年に稽古場を増築していた。それから17年後。震災で家は崩れ落ち、1階で寝ていた長女の桜子=当時(6)=が命を落とした。
大学院生らは約2時間、加賀と加賀の父、幸夫=2009年死去、当時(75)=の話に耳を傾けた。そして、加賀の自宅周辺は揺れが激しく、鉄筋マンションや新築住宅までもが倒壊した事実を挙げ「土地の地盤そのものが弱く、倒壊は避けられなかったと思います」と述べた。
胸のつかえが少し取れた気がした。森南地区は住宅の倒壊率が8割超に上った。その原因を家屋の老朽化とする“誤解”が世間に広まっていた。加賀はそれが悔しかった。
桜子は優しい子だった。学校に転校生が来れば、真っ先に声を掛けた。1歳の時には見よう見まねで踊り始め、華やかな着物が好きだった。「増改築のせいで娘が亡くなったと思われては、桜子が浮かばれない」。学生たちの言葉に救われた。
加賀を訪ねた大学院生らは、当時神戸大都市安全研究センター教授だった兵庫県立大大学院減災復興政策研究科長、室崎益輝(よしてる)(75)の研究室に所属する学生たちだった。室崎は98年6月、「震災犠牲者聞き語り調査会」を設立。学生が中心となって遺族を訪ね、犠牲者が亡くなった状況や原因などの聞き取りに取り組んだ。
「どうして人が亡くなったのか」。調査の契機は約3年前の95年秋にあった。室崎は東京・早稲田大のシンポジウムで同席した作家の柳田邦男から、タレントのビートたけしが語ったという言葉を聞かされた。
「阪神・淡路大震災は、6千人が一度に亡くなった災害ではなく、一人一人が6千回連続して亡くなった災害なんですよ」
室崎は衝撃を受ける。「数字で一人一人の死を記録することはできない。6千回の死に至る被災者それぞれの経験を残さなければ」。それが被災地の責務と考えるようになる。
聞き取り記録は約10年間で犠牲者363人分に上った。現在、公開可能な144人分を製本し、人と防災未来センター(神戸市中央区)の資料室に保管する。専用端末で電子データの閲覧もできる。
大阪府職員の薗頭(そのがしら)紗織(43)は、学問にとらわれない調査の目的を尊く感じ、神戸大4年から修士課程まで参加し、約20人の遺族と会った。
お供えの菓子を持参し、仏壇に手を合わせた。神戸市長田区の男性は長女=当時(30)=を亡くした。男性は長女が6歳の頃に離婚、男手一つで長女を育てた。震災時、同市長田区御蔵通で1人暮らしをしていた長女のアパートは焼失。長女は遺骨で見つかった。遺品はほとんど残っておらず、長女の友人から譲り受けた写真を引き伸ばし、遺影にしていた。家族を失った悲しみが日常を一変させる。そんな様子を目の当たりにした。
「被災とは何なのか、身をもって学んだ」と薗頭。一人一人の死と向き合った経験を糧に、今は大阪府池田土木事務所で住宅耐震の啓発活動などを担う。「どうせ死ぬ」と耐震補強工事を面倒がる高齢者に「あなたが災害で亡くなれば、必ず悲しむ人がいる」と伝えている。
終了から10年の歳月を経て、調査は別の形で受け継がれている。震災を知らない世代の学生たちが遺族の生の声を聞き、残す活動を始めた。
震災24年の昨年1月17日。神戸大キャンパスにある慰霊碑前で催された献花式を、学生団体「神戸大学メディア研」が取材した。震災では学生44人、職員ら3人(旧神戸商船大を含む)が犠牲になった。だが参列者は、遺族と大学職員ばかりで在学生の姿はほとんどなかった。
「多くの先輩が亡くなった事実が忘れられている」。代表で大学院修士1年の森岡聖陽(まさあき)(22)は痛感したという。団体のウェブサイトで連載記事「慰霊碑の向こうに」を始め、遺族のインタビューを掲載。犠牲者8人の遺族が取材に応じた。あの日を思い返して言葉に詰まり「立ち直らなきゃ」と自らを鼓舞する様子を見て、遺族にとって震災に終わりがない現実を思い知った。
記事では、生の言葉にできる限り手を加えなかった。森岡は「無念の思いを抱えて亡くなった先輩たちがいた。今を生きる大切さを在学生と共有したい」と話す。
遺族や被災者の言葉には、数字では見えない震災の「本当」がある。被災者の体験と感情の多様さが、そこに投影されている。
遺族や被災者の手記を集める「阪神大震災を記録しつづける会」。代表だった高森一徳=05年死去、当時(57)=は、震災10年の05年まで計10巻438編を世に出した。
高森は震災後、記録を残す大切さを説いた父親を思い起こした。父は広島で被爆した。晩年に被爆者手帳を申請した際、爆心地近くの橋のたもとにあった戸板に「国破れて山河在り」の文字がチョークで記されていたことを語る。被爆を証言してくれる人は既にいなかったが、語った内容が記録文書と一致し、手帳の交付が認められたという。
神戸市中央区で翻訳・出版の会社を経営していた高森は生前、「マスコミから漏れる記録を拾うことが自分の役割」と語った。10巻目の完成を目前に急逝。後に、遺志を継ぐ人物が現れる。めいで愛知淑徳大助教の高森順子(35)。震災20年で再び手記集を発刊し、今年2月には5年ぶりに最新巻の出版を予定する。
これまでの手記6人分を再掲し、あらためてその執筆者に取材した。過去と現在を同時に記録することで、被災者の25年を映し出す。
長女希(のぞみ)=当時(5)=を失った小西眞希子(60)は、震災後も希の誕生日にごちそうやプレゼントを用意し、お祝いを続けていた。希の存在がこの世から消えてしまうことを恐れた。「娘のためというよりは、自分のためだったと思う」と小西。「やめてしまえば、そこで気持ちが止まっちゃうから」。最愛の娘を失った喪失感へのあらがいだった。
順子は言う。「震災の記憶を埋もれさせないために、被災者や遺族の思いを誰かが聞き続け、記録し続けなければならない」
「犠牲者一人一人の記録を誰もがたどれる仕組みが必要だ」と室崎は提言する。
例に挙げるのは、原爆死没者の名前と遺影を収集、保存する国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市)。遺族の承諾があった名前と遺影を公開し、体験記や証言映像を閲覧できる部屋もある。また、昨年4月に全面リニューアルを終えた広島平和記念資料館(同市)。被爆地の惨状を示す資料をはじめ、犠牲者の遺品や手紙、遺影など、実物資料を展示の核に据えた。いずれも主題に掲げるのは「被爆の実相」だ。
「統計上の数字では人の心に響かない。個別の記録こそが人の命を左右する現場のことを教えてくれる」
阪神・淡路では6434人の命が奪われ、3人が行方不明になった。犠牲者が生きた証し、遺族の悲しみ、苦しみ。災害の悲惨さを理解することは、一人一人の死を間近に感じることから始まる。=敬称略=
(金 旻革、竹本拓也)