(5)最弱音の響きに導かれ

2020/01/17 08:11

季村敏夫さん。事務所跡に建てたプレハブには震災後に撮った街の写真が置かれている=神戸市長田区東尻池町1(撮影・斎藤雅志)

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 大渋滞の末、警察の制止を振り切ってたどり着いた神戸市長田区の事務所は1階がつぶれ、「く」の字になっていた。詩人、季村敏夫さんが父から継いだ小さな会社は、阪神・淡路大震災で全壊した。
 近くの路上には毛布にくるまれた遺体が置かれ、傍らに放心した遺族の姿があった。経験したことのない静けさ。その後、事務所前の高架を隔てて北側の一帯は猛火に包まれた。
 近隣の得意先の多くは全壊、全焼。自身も再建に向けた資金繰りに忙殺された。生まれて初めて、活字が読めなくなった。
 春が過ぎ、連休の頃、被災者の支援を続ける妻に誘われ鷹取中学校の避難所へ。「身一つ、という言葉どおりのお年寄りがたくさんおられた」。気に掛かり、仕事の合間に通っては炊き出しの鍋を洗ううち、再び「言葉がせり上がってきた」。なぜあなたは死んで、俺は生きたのか-。自問の末、翌春に詩集「日々の、すみか」を出した。
 混乱の中、「文学は、医者や建築家のようには役には立たないと言われたら、反論できない」。しかし、それが無力だと思ったことは、ただの一度もない。
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 根底にあるのは、「苦海浄土」の著者、石牟礼道子さんとの出会いだ。水俣病患者や家族らの苦悩と尊厳を克明に描き、高く評価される文学作品である。
 熊本県水俣市に隣接する街で友人が発行する雑誌に震災の経験を書いたところ、石牟礼さんから手紙が届いた。1996年7月、夫婦で熊本市の仕事場を訪ねた。どこまでも慎み深い言葉や物腰。「ひたすら人さまの、患者さんらの下に、底を踏み破って下に下に、というたたずまい」に、深く打たれた。
 以降、数年おきに水俣に足を運び、漁師らと語り合った。船同士をつなぐ、共同作業という意味を持つ「舫(もやい)」。人の悲しみを自分の悲しみとする「もだゆる」。壮絶な差別を受けてなお、水俣病を「のさり」(天からの授かり物)と呼ぶ患者もいた。
 自身も神戸市内の仮設・復興住宅の訪問を続ける中で、人のつながりをどう結び直すのか、模索していた。ボランティア仲間と会を作り、水俣での体験を踏まえた思いを会報につづった。
 壁にぶつかると「苦海浄土」や、自伝形式の小説「椿の海の記」を手に取った。そこには「最も虐げられた人たちと共にもがくことから絞り出されたような」、最弱音の響きがあった。言葉を持たない胎児性患者や死者らの苦悩を見つめ続けた石牟礼さんは、言うなれば「光」。導かれるように、25年を生きてきた。
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 それは「記憶」と「記録」について考える日々でもあった。妻や地元の研究者らと震災の3年後に結成した「震災・まちのアーカイブ」では、ボランティアの日誌やミニコミ誌など、人々の息遣いが宿る資料を保管してきた。災害や戦争、公害といった過酷な体験を他の国、地域ではどう伝えようとしているのか。仲間とともにドイツやポーランド、沖縄などを訪ね、冊子を編んだ。現在は、震災後に同じ垂水区内で引っ越した自宅で運営を続ける。今なお、震災当時を知らない学生らが訪ねてきては、一心に資料を読んでいるという。
 2012年刊行の散文集「災厄と身体」では、震災の跡形のなくなった街で、何が進行しているのか問うた。「無念の死者は言葉を持たず、亡き人を胸に抱えて生きる人は沈黙の中にある」。暮らしに困る人たちの姿もまた、平穏の裏側に隠れてしまっているように感じる。
 だからこそ、か。同じ頃、こうも書いている。詩は「絵そらごと」かもしれないが、祈りに、生きる力になるよう、試みたい-。模索を経てたどり着いた、仰ぎ見る「光」への応答だ。(新開真理)=おわり=
【きむら・としお】1948年京都市生まれ。2歳から高校卒業まで神戸市長田区で育つ。古書店勤めを経て、父から金属製品販売会社を継ぎ、経営しつつ詩作を続ける。

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