【11】取材経験ゼロ 写真だけはと街に出た 審査部記者(当時)堀井正純文化部記者
2020/01/22 10:33
倒れた高架とともに落ちたトラックと、散乱する積み荷=1995年1月17日、神戸市灘区岩屋中町
25年前の1・17。突き上げるような激しい揺れで目覚めた。地震だとすぐには理解できず、次の大きな揺れに「な、何じゃこりゃ」と思わず叫んでいた。神戸市東灘区の阪神御影駅近く、古い木造2階建ての借家の壁や柱が、不気味な音を立ててきしんだ。揺れが収まってから外に出ると、路地を挟んだ隣の家は、1階がつぶれているようだった。
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暗闇の中、同駅周辺へ。倒壊した建物がいくつもあった。当時は入社1年目の審査部員。記事を書く外勤記者ではなく、見出しや原稿をチェックする校正・校閲担当だった。取材経験はゼロ。何をすべきか分からなかったが、写真だけは撮らなければと、部屋に戻りカメラを捜した。
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壊れた家のそばでぼうぜんと立つ人々。ためらいつつ、フラッシュをたいた。夜が明けると、街の惨状があらわになった。あちこちから立ち上る煙。住民らが学校のプールから水をくみ、必死のバケツリレー。阪神電鉄の高架は崩れていた。信じがたい光景に、「戦争みたいや」と嘆くお年寄りたちも。現実感がないままシャッターを切り続けた。ただ、人々を正面から写す勇気がなく、後ろ姿ばかり撮っていた気がする。
自宅そばでは、生き埋めになった人を救助するために近所の人が集まっていた。当時同居していた友人と手伝った。その後、「会社に行った方がええんちゃうの?」という友人の言葉に押され、バイクで三宮駅前の本社を目指した。見慣れた風景は一変していたが、戦災にも耐えた御影公会堂の姿はあった。バイクを止めては撮影することを繰り返しつつ西へ。その時は、本社に大きな被害が出ているとは思いもしなかった。
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校閲作業もなくなり、命じられたのは「自宅待機」。その夜は避難所で、余震におびえて過ごした。御影の自宅は全壊。灘区鶴甲の社員寮に避難した。撮った写真は結局、紙面には載らなかった。約1週間後に社会部へ配置されるまで、報道機関に属しながら何もできなかった。犠牲者の顔写真を集め、その人生を聞く連載「忘れない」で、遺族らの深い悲しみに触れたのは後のことだ。
仕事のない「待機」の日々。家から使える家財を運び出す作業などに追われた。自分もまた被災者だった。