【13】駆け付けた海兵隊員に被災者は笑顔を見せた 姫路支社記者(当時)藤原学報道部デスク
2020/02/05 10:15
阪神総局に向かう途中、道路をふさいだ巨岩=1995年1月17日午後、西宮市越水社家郷山
人は壮絶な死に直面したとき、「悲しい」という感情をはるかに超えた表情を見せる。それをどう表現すべきなのか、阪神・淡路大震災から25年たった今も整理はつかない。強いて言うなら「不思議な透明感」。そんな空気が被災地を包んでいた。
姫路支社編集部員だった私は、17日の朝、同僚と車で阪神総局(兵庫県西宮市和上町)を目指した。約5時間かけ西宮市北部の盤滝トンネルを抜けると、目に飛び込んできたのは、市街地から上がる黒煙だった。巨岩が道路をふさぎ、1階部分が押しつぶされた住宅があちこちにあった。
午後10時。同市中須佐町の生き埋め現場に立っていた。取材の後先が決められないような光景に戸惑い、悩んだ。状況を総局に報告すると、当時のデスクから一喝された。
「すべてを撮るんや。すべてを聞くんや。すべてを伝えるんや」。感情を押し殺すように、無我夢中でシャッターを切った。
避難所となっていた市立安井小学校で夜を明かした。無事を喜び合い、余震の恐怖で身を寄せ合う被災者のそばに、毛布にくるまれた遺体が次々と運ばれてきた。断水で遺体を清めることもできず、ウエットティッシュを使い、言葉もないまま黙々と遺体をふく遺族もいた。
翌18日午前10時、同市宮西町の「宮西マンション」前にいた。チェーンソーでの救出作業中、たまっていたガスに引火し火災が起きた。消防車が到着できない中、3時間燃え続けた。生き埋めだった女性(33)と長男(14)、長女(9)、次女(8)、再婚予定の男性(36)の計5人が亡くなった。私の横で救出を待った女性の姉は、つぶやいた。
「押しつぶされた上に、火に包まれるなんて…」
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その後、西宮市役所の担当となり、被災情報を収集した。その傍ら、橋桁が落下した阪神高速道路の災害現場や酒蔵なども取材した。
鮮明に覚えていることがある。米国領事館総領事公邸(同市)の救護に駆け付けた米海兵隊岩国航空基地の隊員らが、液状化で断水状態だった浜甲子園団地で、給水を行ったことだ。大統領や国防長官の指示なしに動くことは極めて異例だった。海兵隊員らの自主行動に、被災者が見せた笑顔が忘れられない。