【15】病院は薄暗く、不思議なほど静かだった 社会部記者(当時)網麻子文化部デスク
2020/02/19 12:12
傷の手当てをする看護師=1995年1月17日午前、神戸市灘区岸地通4、稗田小学校
あの日、早朝から但馬に出張する予定だった。神戸市灘区の阪急王子公園駅近くのマンション4階で、起き抜けに激しい揺れに襲われた。暗闇の中、家が大きくうねる。何かが降ってくる。ベッドにしがみつく。地震と分かるまで時間がかかった。
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明るくなってから、カメラを携えて周辺を歩いた。倒壊した家や商店が次々目に入る。壊れた家が道をふさぎ、道路に大きな亀裂が走っていた。近くの稗田小学校には、少しずつ人が避難してきていた。保健室の前で、女性がけが人の手当てをしている。当時のメモには「看護婦」とある。倒壊した家の下に人がいるかもしれない、とは想像できなかった。ただシャッターを切り続けた。
◆
神戸・三宮は、多数のビルが倒壊していた。三宮の本社から、先輩記者と車で東方面へ。倒壊したビルで救助をしている現場を見つけ、神戸新聞だと告げてカメラを向けた。男性の一人が「何、撮っとんじゃ」と先輩につかみかかった。周りの人が止めてくれ、あわてて立ち去った。
その後、同市東灘区鴨子ケ原1の甲南病院(現甲南医療センター)へ。「道を開けてくれ」。大声を上げ、板に乗せた人を運び込む男性たち。広い待合スペースはけが人があふれ、床は大勢の人が横たわっていた。停電のため薄暗く、不思議なほど静かだった。写真は撮れなかった。被災者の現実を突きつけられたからかもしれない。病院側は「手助けが必要だと伝えてほしい」と訴えた。記事は書いたが載らなかった。
あの日、取材をしながら何を感じたのだろう。思い出せない。
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地震から3日後。先輩記者と一緒に、神戸市兵庫区の地下鉄湊川公園駅近くにある「神戸新鮮市場」を訪れた。崩れた店や停電した区域がある中、生鮮食品店や荒物店など十数店が営業を再開していた。「いらっしゃい!」の声に励まされる。
自宅が全壊したにもかかわらず、店を開けた女性はさばさばしていた。「地震になんか負けへん」「ちゃんと伝えてや」。そんなふうに言われたと記憶している。その心意気が胸に響いた。なぜか涙が込み上げた。
あのとき、人間の生きる力に触れ、心を動かされたのだ。今はそう思っている。