【14ー2】診るということ PTSD、後遺症…耳傾け

2020/02/29 08:55

「被災者と信頼関係を築かなければ、心の内側は語ってもらえなかった」と振り返る兵庫県こころのケアセンター長の加藤寛さん=神戸市中央区脇浜海岸通1(撮影・吉田敦史)

 眠れず、抑うつ状態が続く。不意に不安にさいなまれ、高ぶる感情を抑えきれない-。 関連ニュース 【AI どう向き合う-軍事】戦争へのハードル下げる 技術が生み出す命の格差 名古屋大大学院准教授 久木田水生 病院ランキング<精神科>2位関西青少年はECT積極導入 こころの医療センター「大人の発達障害」も対応 災害、いじめ、ネット依存…14歳からのストレスにどう向き合う? 自分を知るセルフケア術、この一冊に

 被災者の心をむしばむ心的外傷後ストレス障害(PTSD)。精神科医の安克昌(あんかつまさ)=2000年死去、当時(39)=は阪神・淡路大震災から約2週間後、神戸市兵庫区の湊川中学校の避難所を訪ねる。泣きはらした目をした女性がいた。安の胸元にある名札の「神経科」の文字を横目に見た後、何も言葉を発しなかった。体育館や講堂の寒さは厳しく、風呂にも入れない。混雑する室内では着替えもままならない。
 震災1年後に刊行した著書「心の傷を癒(いや)すということ」。安は「医療の視点で心のケアを考えすぎていた」と記す。名札を外し、白衣を脱いで被災者の話に耳を傾けた。
 繰り返すうちに、病院の診察室を訪れる人が現れる。ある女性は大火から逃げる際に聞こえた「助けて!」という叫び声がフラッシュバックすると吐露。「今も耳元でその声が聞こえる。私も死ねばよかった」と話し「知らない人には分かってもらえない」とむせび泣いた。
 安は生前、取材にこう語っている。「いつも会っていれば、相手が話し始める。大切なのは、その時、そばにいること。そこに『存在する』ことです」。安心できる環境で、安心できる相手にだけ、被災者は苦しい胸の内を明かした。
 安が師事した神戸大名誉教授の中井久夫(86)は、安の著書の序文で「避難所訪問は、彼のモデルによって初めて軌道に乗った」と評価した。安の存在は、被災地における精神科医の在り方を示す先駆けだった。
 被災体験で感じた恐怖や悲しみなどを語り合うメンタルヘルスの手法「ディブリーフィング」。ストレスをはき出す手段として、当初の避難所や仮設住宅で推奨されていた。しかし、臨床心理士の兵庫県立大大学院教授冨永良喜(67)は思わぬ落とし穴を目の当たりにする。
 小学校では震災をテーマにした作文を書いたり、絵を描いたりすることが広まっていた。ところが、児童の思いを受け止めることになる指導教員が強い負担感を覚えていた。教員も被災者だった。「被災体験を無理に語り合うことは逆効果だった」
 震災から2、3年たって、子どもの変調を訴える声が相次いだ。「落ち着かない」「ジャングルジムから落ちてしまう」。震災がトラウマ(心的外傷)となって学校生活に影響を及ぼしていた。そのことが分かると、学校現場で震災を語ることを避ける動きが広まっていく。だが今度は、トラウマの克服を妨げ、心の回復を遅らせることになった。
 ある30代女性は中学1年の時、2歳上の姉を震災で失った。震災や姉の話題は家でも学校でもしなかったが、心には「自分のせいで姉が死んだ」という罪悪感がおりのようにたまっていた。大学3年になってうつの症状が現れ、PTSDの診断が下ったのは、震災の10年後だった。
 「長い時間が経過してからもPTSDは発症すると思い知らされた」。神戸大で安克昌の先輩だった兵庫県こころのケアセンター長の加藤寛(61)は振り返る。30代女性の症例を目にするまで、心の病に長い潜伏期間があることは分からなかった。
 震災の記憶を幾度も語ることで心を慣らし、女性の症状は抑えられた。「つらい経験や感情を忘れたくても忘れられず、苦しむ人がいる」と加藤。大切なことは孤立させないこと。心のケアは、震災を機に普及した寄り添いの形だった。
 震災で認定された921人の災害関連死。生活環境の悪化が招く死をいち早く察知したのは、神戸市長田区の神戸協同病院長、上田耕蔵(69)だった。
 避難所で衰弱し、入院した患者が脳梗塞や急性心筋梗塞で命を落とした。ぜんそくの通院患者のうち、わずか1カ月の間に4人が発作で死亡した。普段、同病院では年間2人程度。異常さが際立った。
 「避難所環境の劣悪さは関連死の要因だったが、問題はそれだけではなかった」。上田は、震災後1年間の神戸市における関連死を分析。関連死認定で弔慰金が支給された615人のうち、避難所で病気が発症して死亡した人は137人。22・3%に過ぎず、大半は自宅など避難所以外の場所で亡くなっていた。
 ライフラインの寸断やストレスなどが相まって、病弱な人々が犠牲になった。東日本大震災の被災地でも同じ境遇から関連死が頻発した。上田は「災害時でも日常に近い生活の質をいかに保つかだ」と訴える。
 一方、直接死の分野から生死の分かれ目を見詰めた資料がある。通称「井宮メモ」。後に、耐震化や家具の転倒防止などの防災対策を促す基礎になった。
 兵庫県淡路市の北淡診療所長、井宮雅宏(61)は、39人が犠牲になった旧北淡町で遺体検視やけが人の治療に奔走。「なぜ助かったのか、なぜ亡くなってしまったのか」。遺族の話を聞きながら答えを探す。
 死者24人、生存者9人の計33人分の死因や室内状況などを克明に記した。机の下に潜り込んだ女性は、倒れたはりの直撃で机が割れて死亡。別の女性は、崩れた天井をテーブルといすが支えて命を取り留めた。空間の有無が生死を左右した。「犠牲者の無念を少しでも晴らしたかった」。それが医者の役割に思えた。
 約25万棟が全半壊し、多くの被災者が生き埋めになった。
 震災当日、県立西宮病院に応援に駆け付けた県災害医療センター顧問の鵜飼卓(たかし)(81)。意識のない高齢男性が搬送されてきた。体を長時間圧迫されて腎不全や心不全を引き起こす「クラッシュ症候群」を発症していた。病院自体が被災しており、十分な治療ができず、男性は助からなかった。鵜飼は「避けられたはずの死だった」と悔いた。クラッシュ症候群が続出し、命が助かっても後遺症に苦しむ人は少なくない。
 神戸市東灘区御影中町3にあった自宅が全壊した神戸市中央区の警備員、岡田一男(79)。約18時間後に救助されるまで、崩れ落ちた壁やはりの隙間で身動きが取れなかった。尻が圧迫され、クラッシュ症候群と診断され、右足に障害が残った。今も足首を包帯などで固定しなければ、起伏がない道でも歩行は難しい。
 「助かってよかったね」と声を掛けられるのが嫌で、いつしか人付き合いを避けていた。行政の支援はなく「世間から見捨てられた気分」だったが、震災から11年後、NPO法人「よろず相談室」理事長の牧秀一(70)との出会いが転機になる。
 牧は仮設や復興住宅の被災者支援に取り組んでいたが、岡田の境遇を知って「災害障害者」が抱える孤独に気付き、心を痛めた。
 牧は2007年3月から災害障害者と家族が集まる「つどい」を始める。毎月1回、震災で身体や精神、知的障害者になった人々が顔を合わせられる場だ。ある高齢女性は「ここは泣いてもいい場所なんですね」と涙を流した。境遇を分かち合い、弱音を共有する。だからまた前を向いて生きられる。「一人じゃないと思えることが大切」と牧。災害が頻発し、災害障害者も各地に存在する。だが、集える場を提供する動きは遅々として進まない。「人は人でしか救えない。被災者が抱える苦悩にもっと目を向けるべきだ」=敬称略=
(金 旻革、竹本拓也)

神戸新聞NEXTへ
神戸新聞NEXTへ