【結び】次代へ 災害の悲しみ繰り返さない

2020/03/28 10:40

「阪神・淡路大震災の失敗こそ語り継がなければならない」と力説する堀内正美さん=神戸市北区鈴蘭台南町5

 鎮魂と希望の火が初めてともされた瞬間だった。 関連ニュース 「一緒に先生になろうね」亡き親友と14年前に誓った夢は目標になった 自分は被災者なのか-葛藤も胸に経験語る21歳教育大生 言葉の壁、外国人は災害弱者「誰もが困らない仕組み構築を」 通訳申し出たがたらい回し経験したボランティア 地方女子の問題を可視化、原発避難者の人権訴える 兵庫ゆかりの2人に「女性リーダー」賞

 2000年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災から5年。神戸・三宮の東遊園地に整備されたガス灯「希望の灯(あか)り」が点灯し、今日まで揺らめきを絶やさずにいる。
 「犠牲者への慰霊だけではなく、生き残った人々が前を向けるシンボルが必要だった」。神戸市在住の俳優、堀内正美(70)は言う。同市に希望の灯りの設置を訴えた人物だ。
 震災直後、ボランティア団体「がんばろう!!神戸」を結成し、仮設住宅などの支援に走り回った。被災地の慰霊碑を網羅する「震災モニュメントマップ」の製作にも取り組み、共感した遺族が活動に加わった。
 阪神・淡路から5年、東遊園地の追悼行事には、被災者や遺族らの手によって、神戸・阪神間、淡路島などの被災地をはじめ全国各地からランタンなどの火が集められた。「希望の灯り」となったそのともしびは、支え合い、助け合いの尊さがもたらした「感謝」の結晶だった。
 堀内は02年、東遊園地で毎年1月17日に開かれる追悼行事と語り継ぎを活動の柱とするNPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯り(HANDS)」を発足させる。その代表は阪神・淡路から20年目の14年、一人の若者に引き継がれる。
 代表となったのは藤本真一(35)。神戸市北区在住で被災経験はなかった。阪神・淡路に関わるきっかけは東日本大震災。HANDSが救援物資をトラックで送る「たすきプロジェクト」に参加。ボランティアや被災者の様子をビデオカメラで撮影し、動画投稿サイト「ユーチューブ」で配信し、共感の輪が広がった。
 「阪神・淡路の被災地からエールを送る意味を実感した」。藤本は若者の感覚で阪神・淡路を伝える方法を模索し始める。会員制交流サイト(SNS)「フェイスブック」で震災モニュメントを情報発信。昨年12月の「神戸ルミナリエ」では初めて、舞子高校環境防災科の生徒による語り部ブースを設ける。「被災の悲しみやつらさを直接知らない引け目はあるが、新しい切り口で阪神・淡路を発信したい」。当事者になれなくても、代弁者にはなれる-。藤本の試行錯誤が続く。
 震災から25年、経験と記憶を継承する仕組みが被災地に広がっている。舞子高校の「環境防災科」は、防災教育に特化した全国初の専門科として02年に開設された。
 1期生の岸本くるみ(33)は、神戸学院大社会防災学科で実習助手として勤め、被災地のまち歩きのコーディネートなど学生の学びを手伝う。「高校時代があったから防災に関わりたいと思えた」と振り返る。
 神戸市兵庫区の会下山小2年のとき、同区松本通の大火を見た。とはいえ、普通科が嫌だったというだけで、なんとなく舞子高校に入学。そこの授業で初めて、不眠不休で行われた被災地の復旧作業について知る。阪神・淡路の実像が多面的に浮かび、心を揺さぶられた。
 神戸学院大進学後は防災教育の教材作りに力を注ぎ、卒業後は中米エルサルバドルで青年海外協力隊の防災支援を志願。東日本大震災では被災地から届く写真の修復作業に関わった。岸本は「自分なりの防災で社会に貢献したい」と静かに語る。
 「安全神話」を崩壊させた阪神高速道路の倒壊、住宅再建に代表される被災者支援制度の乏しさ、少子高齢化時代の社会保障体制。阪神・淡路は社会の課題を浮き彫りにした。被災地では「反省」に基づく教訓を発信するため、組織と仕組みづくりの機運が醸成される。
 02年開設の「人と防災未来センター」、06年設立の「ひょうご震災記念21世紀研究機構」は専門研究員を擁する防災シンクタンクの役割を担い、17年に兵庫県立大大学院で始まった「減災復興政策研究科」には社会科学分野における防災研究の精鋭が集う。これほどの「知」の集積は全国的にも類例を見ない。
 災害社会学を専門とする関西大社会安全学部准教授の菅磨志保(48)は、人と防災未来センターの初代専任研究員の一人だ。阪神・淡路のときに大学院生だった菅は非政府組織(NGO)「ピースボート」のボランティアに参加する一方、避難所の運営を調査した。
 被災者のニーズを敏感に感じ取りながら、ボランティアは仮設住宅の見守りや子どもの居場所づくりなど役割を多様化させていた。被災地で起きる問題や現象の原因解明にのめり込み、同センターの門をたたく。
 「災害という非日常から日常の社会問題が見えてくる」と菅。日常に潜む課題を災害から見詰める力を学生に教えるため、ともに神戸・長田のまちづくりの現場などを歩く。
 昨年まで同センター研究員だった京都経済短期大専任講師の菅野拓(37)は、被災者支援の枠組みとして近年注目を集める「災害ケースマネジメント」の普及活動に励む。
 大阪市立大大学院などでホームレス支援を研究していたとき、東日本大震災が発生。ホームレス支援団体などが仙台市に集結し、菅野は支援策の企画立案や枠組みづくりを担った。児童福祉施設や母子寮など支援が届きにくい被災者への物資提供に尽力し、現地のNPOに所属して被災者による被災者の見守り事業を考案。雇用創出に知恵を絞った。
 仕事を失い、支援の法制度が分からず途方に暮れる被災者を目の当たりにした。「個々の被災に寄り添わなければいけない」。災害ケースマネジメントで、被災者一人一人の支援計画を策定し、法律や福祉、雇用の専門家らが、生活復興を継続的に支える必要性を説く。
 助け合うための制度や機関、そして人を熟知し、つなぐ。菅野は東日本の被災地へ通い続ける。一人でも多くの人を救うために。
 阪神・淡路大震災は、多くの人の生きざまに影響を与えた。
 まちづくりの専門家らでつくる「神戸復興塾」に参加した神戸大地域連携推進室学術研究員の山地久美子。東日本大震災では「女性の復興カフェ」を各地で主催し、復興に手を携える女性のネットワークを広げ、共生の社会環境づくりを目指している。県立大大学院減災復興政策研究科修士課程の折橋祐希(29)は、デジタルアーカイブを活用した阪神・淡路の継承に力を入れる。
 同じ悲しみを繰り返さない-。その意志は阪神・淡路から四半世紀にわたって被災地に宿り続ける。
 神戸市東灘区にある震災遺児の支援施設「神戸レインボーハウス」に通った三田市の会社員、福井友利(29)はこの9年間、機会を見つけては東北に足を運ぶ。昨年11月にも仙台市で震災遺児と交流した。
 「親を亡くしたことを友人に話していいのだろうか」。遺児の悩みを福井は黙って聞いた。25年前、福井も母幸美=当時(31)=を亡くし、同じ葛藤を抱えた。心の隙間を埋めてくれたのは、同ハウスの仲間だった。福井は言う。「心の傷は何年たってもなくならない。だから、そばにいてあげたい」。次は自分が支える。思いは揺らがない。=敬称略=
(金 旻革、竹本拓也)

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