妙法寺に変わった言い伝え 那須与一に関わるその意味とは

2019/07/26 05:30

藤本寿雄所長

 平安時代から続く伝統行事「追儺式」で有名な妙法寺や、源平合戦で弓の名手として名をはせた那須与一ゆかりの北向八幡神社、秋の七草・ハギで知られる明光寺(萩の寺)(神戸市須磨区)など三木街道(兵庫県道神戸三木線)沿いには由緒ある社寺が点在する。中でも本紙妙法寺専売所長の藤本寿雄さん(67)のお薦めは、同神社の西側にある「那須与一宗高公御墓所」だ。そこには「参拝するとシモの世話にならない-」という何とも不思議な言い伝えがあるという。(千葉翔大)

 与一は、1168年に下野国(現在の栃木県)で生まれた。10歳で弓を射る才能を開花させ、12歳の時、源義経から源氏入りの打診を受けた。5年後、屋島の合戦で平家方の扇に弓を命中させた逸話で知られる。
 藤本所長に、与一の墓を管理する妙法寺協議会会長の藤井一成さん(72)を紹介してもらい、一緒に墓を訪ねた。
 60段余りの石段を上ると天井に献燈の赤提灯が並ぶ御堂が現れた。この中にある五輪塔が与一の墓だ。藤井さんが遺言の記された本を見せてくれた。そこにはこう書かれている。

 今日まで親身に手厚い看護を受け、ありがたく思う。その恩を返せぬまま、別れることは心苦しいが、皆がこのような病を患わぬように見守っている。

 与一は34歳で出家し、源平合戦で亡くなった武士を弔う旅に出たという。その道中、脳血管障害である「中風」を患い、ここ妙法寺地区で病床に伏した。村人の懸命な手当てもむなしく、息を引き取ったという。
 半身不随になり、シモの世話を受けていた与一。藤井さんは「村民らが自分と同じにならないように、との強い思いを抱き死んでいったのでは」と説明する。臨終を見届けた者が最期の姿を各地に伝えたことから、「シモの世話をかけずに往生できる」との口碑になったとみられる。
 9月7日の与一の命日や月命日、初詣などの節目には、下着にはんこを押してもらったり、お守りを買い求めたりする人であふれていたが、阪神・淡路大震災以降は、その数も少なくなったという。
 墓所が公開されるのは現在、月命日の7日のみ。五輪塔を前に、与一の晩年の様子に思いをはせ、その場を後にした。

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