パラリンピック歴史は? 障害者スポーツの祭典まで再び1年
2020/09/13 13:30
神戸新聞NEXT
東京パラリンピックの開催まで再び1年を切りました。世界的に続く新型コロナウイルス感染症の影響が心配ですが、兵庫出身の選手では12日現在で車いすテニス女子の上地結衣(明石市出身、三井住友銀行)ら4人の出場が内定しています。ところで、パラリンピックはいつ、なぜ生まれたのでしょうか。振り返ってみましょう。(有島弘記)
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■第1回は1960年 名称は64年東京大会から
1960年に始まったパラリンピックですが、この名称は64年の東京大会で誕生しました。オリンピックと、両下肢まひを意味する英語の「パラプレジア」を掛け合わせた造語です。
ただし、当時は大会の愛称として使われ、正式名称になったのは88年の韓国・ソウル大会から。国際オリンピック委員会(IOC)が採用に同意し、言葉の定義も「並行」や「もう一つの」を意味する「パラレル」との組み合わせに見直されました。パラリンピックの出場対象が両下肢まひだけでなく、全ての身体障害に広がっていたためです。
■戦傷者のリハビリが起源
パラリンピックの起源は48年、ストーク・マンデビル病院(英国)の医師、ルードウィッヒ・グッドマン氏が開いたアーチェリー大会とされています。その後、国際大会として種目数を増やし、60年はオリンピック閉幕直後のイタリア・ローマで開催。後に第1回パラリンピックとして認定されました。
ではなぜ、グッドマン氏は大会を開いたのでしょうか。同病院には脊髄損傷センターがあり、センター長だった同氏は第2次世界大戦の戦傷者のリハビリテーションにスポーツを取り入れました。多くの患者の社会復帰につながり、大会は機能回復の成果を示す舞台となりました。
日本では前回の東京大会が、障害者スポーツ普及のきっかけになりました。パラリンピックとは別に国内大会にあたる第2部も開かれ、日本各地の身体障害者が参加。翌年に障害者の国体にあたる「全国身体障害者スポーツ大会」(現・全国障害者スポーツ大会)が始まり、今も続いています。
■障害によりクラス細分化 来年は22競技を予定
今回の東京パラリンピックは史上初めて同一都市で2度目の開催となります。第16回の夏季大会となり、陸上や競泳など22競技を予定。日本選手団は2016年のブラジル・リオデジャネイロ大会で獲得した金0、銀10、銅14のメダルから大幅増を目指しています。
大会を統括する国際パラリンピック委員会(IPC)には大会を通じて広めたい価値があります。その一つが「公平」です。定義は「多様性を認め、創意工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気付かせる力」。障害の種類や程度による細かいクラス分けがその一つですが、健常者の柔道に階級別があるように、障害者だけに当てはまる理念ではありません。
21年、東京で迎える世界の祭典。「公平」などの価値がレガシー(遺産)として、日本中に広まることが期待されています。
【東京パラリンピック代表に内定している兵庫出身の選手】車いすテニス女子=上地結衣(三井住友銀行、明石市出身)▽陸上男子=大矢勇気(ニッセイ・ニュークリエーション、西宮市出身)▽柔道男子(視覚障害)81キロ級=北薗新光(アルケア、神戸市北区出身)▽同100キロ超級=正木健人(三菱オートリース、南あわじ市出身)-の4人(12日現在)。2016年のリオデジャネイロ大会には、神戸新聞社の集計で兵庫ゆかりの16人が参加した。
【教えて!先生】大阪体育大学客員教授・高橋明氏
パラリンピックという名前を知っていても障害のある人の可能性や、障害自体について、市民の認知度はまだまだ低い。理解を深めるためには「まず見ることから」と常々言っている。ちょっとした工夫で「こんなこと、あんなこともできるんだ」というイメージに変わると思う。
1964年の前回東京大会当時、障害のある人は家に閉じこもるか、病院や施設にいた。なかなか社会参加できなかったが、東京にやって来た世界の障害者たちが仕事を持ち、家族を持ち、笑顔でスポーツに取り組む姿を見て、日本の医療関係者や福祉関係者、障害者自身が大きな感銘を受けた。障害のある人にとって「スポーツは大切なもの」となり、発展し始めた。
パラリンピックは世界最高峰のスポーツ大会。健常者と同じ競技スポーツとして、パラアスリートは頑張っている。新型コロナウイルスの影響でスポンサーの経営が落ち込む中、国を含めて支援を継続してもらうには、東京大会で好成績を収めることが大事になる。