兵庫津になぜ新ミュージアム? 「ひょうごはじまり館」が起工、22年度完成へ

2021/04/18 10:33

「ひょうごはじまり館」のイメージ図(兵庫県提供)

 兵庫県が2022年度の完成に向けて整備を進める「兵庫津(ひょうごのつ)ミュージアム」の展示施設「ひょうごはじまり館」の起工式が3月末、神戸市兵庫区中之島2でありました。対になる復元施設「初代県庁館」は先行して工事中で、今秋オープンの予定です。全国でも唯一、五つもの旧国から成る兵庫県。兵庫津と呼ばれた地に新たな施設を造るのは、その独自の成り立ちをアピールし、交流や観光につなげる狙いがあるようです。(田中真治) 関連ニュース 兵庫県内のマンション発売戸数、2カ月連続増 投資用マンションが全体押し上げ 11月 神戸で活躍、ウナギ焼き職人は28歳の米国人 アニメに導かれ来日5年、絶妙技にファンも 兵庫県の推計人口533万6139人 6カ月連続で減少、11月1日時点

■開港に伴い設置 初代県庁舎を復元
 同ミュージアムができる兵庫津は、いにしえより栄えた港です。平安時代には平清盛が中国との貿易拠点として大修築し、「大輪田泊(おおわだのとまり)」と呼ばれました。
 県名はこの地名に由来するとされています。
 兵庫は幕末、外国と貿易を行う開港場の一つになりました。経済的に重要な地域として、旧幕府領が没収され、県が置かれます。廃藩置県の3年前、1868(慶応4)年のことです。このとき県庁として使われたのが、兵庫津にあった「大坂町奉行所兵庫勤番所」でした。
 ただその期間はわずか3カ月半余り。開港場が神戸に変わり、外国人居留地が設けられるとより近い坂本村(現神戸地方裁判所所在地)に新築。さらに73(明治6)年、旧オランダ領事コルトハルス邸(現在の県警本部東付近)へ改築移転後、1902年に新庁舎(現県公館)が完成します。現在の県庁舎は5代目となりますが、それも建て替えの検討中です。
 初代県庁舎のあった兵庫津は、明治時代に姿を変えます。航行の難所の和田岬を避けるため運河が造られ、庁舎跡は水底に。記念碑が63年に建てられたものの、あまりクローズアップされてきませんでした。図面を基に復元される初代県庁館は「兵庫県の始まりのシンボル」という位置づけになります。
■県政150周年事業 ふるさと意識醸成
 新たなミュージアムの背景には、地域活性化があります。
 きっかけは1991年、地元の自治会による歴史資源を活用した再開発支援の要望でした。阪神・淡路大震災による中断を挟み、県政130周年の98年に歴史資料館の整備構想が持ち上がります。主に用地の問題から足踏みしていましたが、運河に近接する神戸市中央卸売市場本場を集約する計画が始動。県政150周年事業として、跡地に建設されることとなりました。
 この間、兵庫県が直面してきた大きな課題は人口の減少です。少子高齢化に加え、若者層の流出に歯止めがかかっていません。
 「県の歴史や風土を知ることで愛着が湧き、地域に住もうというふるさと意識が醸成されれば」。そうした期待を込めて、展示機能を担う「はじまり館」は、兵庫津の歴史▽県の成り立ち▽五国の魅力-を3本柱としています。ミュージアム整備室を置くのは、県の地域創生局。歴史博物館とはやや異なり、「兵庫ファンを増やす拠点施設」を基本理念にしているのです。
■五国が一つに 成り立ちを紹介
 兵庫県の特徴は多様性といわれます。自然や風土、産業や文化もさまざま。それは、摂津、播磨、但馬、丹波、淡路の五国が一つになったためですが、その成り立ちはといえば、必ずしも知られていないようです。
 第1次兵庫県は兵庫津周辺や播磨などに点在する幕府領でしたが、複雑に形を変え、徳島藩内の独立騒動「庚午(こうご)事変」により淡路島北部が編入されました。ところが、廃藩置県を受けた第2次兵庫県は西摂津5郡のみ。これでは開港場を持つ県にしては小さすぎ、1876(明治9)年、飾磨県(播磨)、豊岡県の一部(但馬・丹波)、名東(みょうどう)県の一部(淡路)を合わせた大県となったのです。後には岡山県の県境地区(美作・備前)の合併もありました。
 こうした複雑な過程に、若き伊藤博文が初代知事に就任するといったドラマが秘められており、訪れた人を引き込む伝え方がミュージアムには求められます。
 さらに、五国を結ぶ交流の役割も重要です。展示や映像で魅力を発信するのはもちろん、県内の施設と連携し、サテライト展示を行うことも検討されています。時代考証を踏まえて復元される初代県庁館では、映画などの撮影を視野に入れており、ロケ地として県外にPRしていくことも目指すそうです。
 まとまりがないともいわれる五国をつなぎ、各地に誘導する仕掛けをどのように展開していくか、発信力と運営手腕が問われます。

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