狙われた航空機工場 関西で最初の本格空襲(1)フルーツケーキ1号
2021/08/14 05:30
1945年1月19日の昼すぎ、空爆を受ける川崎航空機工業明石工場(米国立公文書館所蔵)
「ゴー」。うなりを上げながら飛行機が近づいてきたと思った次の瞬間、「ダッ、ダッ、ダーッ」と天地が揺れた。「地震どころやないねんで。体が跳び上がってまうんやから」
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■2400キロかなたから襲来
1945年1月19日の昼下がり。川崎航空機工業(現・川崎重工業)明石工場=兵庫県明石市川崎町=の事務員だった大西八重さん(96)=同市=は、エンジン工場事務所「三研(さんけん)」にいた。鳴り響く警戒警報には慣れていたが、間を置かず、レベルの高い空襲警報へ切り替わったのがいつもと違った。担当するエンジン資材の書類を地下室へ運び込むと、正門脇にある防空壕(ごう)へ急いだ。
「大阪や神戸で空襲がまだやのに、明石に来るはずない」。そう高をくくっていたのもつかの間。至近距離で立て続けに爆発が起きる。長いすを置いただけの壕内につかまる所はなく、衝撃で宙に浮き上がる体を周囲の人たちと支え合った。10代の女子工員たちの泣き声が響いた。
空爆が収まって壕の外へ出てみると、ほこりが舞い、まだ昼すぎなのに夕暮れ時のように薄暗かった。「(運搬用に使われる)馬のようなものが電線に引っかかっていた。とにかく見るのが怖かった」
米軍が残した作戦任務要約などによると、明石工場を爆撃したのは62機。午後1時50分から34分間にわたり、610発(154トン)の爆弾を落とした。この日の死者は工場関係263人、地域全体で327人に上った。
米軍がこの作戦に付けたコード名は「フルーツケーキ1号」。その甘美な響きとは裏腹に、明石は多大な苦しみを味わった。
◇
1月19日は関西で初めての本格的な空襲となった。
米軍が日本本土を空爆することができた背景には、航空機開発の成功があった。「B29」。9トンもの爆弾を積み、5千キロを超す長距離を飛び続けられる爆撃機だ。航続距離は、旧モデル「B17」の3千キロ超から大幅に伸びた。
44年7月、サイパン島が陥落した。日本本土までの距離は約2400キロ。米軍は日本本土を、B29による空襲の射程に収めた。続けて攻め取った隣のテニアン島やグアム島と合わせたマリアナの3島に基地を設け、11月から本土空襲を始めた。
3月初めまでにあった主な本土爆撃20回のうち、16回の標的は航空機工場で、中でも航空機エンジン工場が多かった。戦争を続ける上で欠かせない航空機の生産力を、日本から奪おうとしたのだ。中島飛行機武蔵製作所(東京)や三菱重工業名古屋発動機製作所(名古屋市)などに続き、川崎航空機の明石工場が標的となった。
川崎航空機が生産した航空機エンジンの国内シェアについては「9%」との推計がある半面、終戦後に空爆の効果を調べた米国戦略爆撃調査団は「15%」や「25%」と指摘。明石工場は同社のエンジン部門の中心であり、「この指標が軍事上の標的としての重要性を示している」と爆撃の意義を強調した。
◇
明石が受けた6回の空襲のうち、初めの4回は川崎航空機の明石工場が標的だったが、周辺地域も多大な被害を受けた。
「目標(明石工場)の南東約千ヤードにも投弾した」との米軍の記録が残る6月9日の空襲では、工場には損害がほとんどなかったが、明石公園が被災。園内へ避難する人たちに爆弾が降り注ぎ、この日は6回のうちで最多となる656人が亡くなった。
上空5~8キロからの爆弾投下では上空に雲が多い場合、機内から地上の目標を目視できず、精度の低いレーダーに依存。「結果として無差別爆撃となった」と明石市史は伝える。
米軍が主な攻撃目標を川崎航空機明石工場から市街地へ移したのが、5回目の7月7日未明の空襲だった。千トンに上る焼夷(しょうい)弾で9千戸以上の家屋を焼き払い、まちは焦土と化した。(長尾亮太、川崎恵莉子)
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関西初の本格空襲で標的となった航空機工場は、なぜ明石の地に築かれ、そこでどんな生産活動が行われたのか。米国戦略爆撃調査団の報告書や工場で働いた人たちの証言を基にひもとく。