あの日からの想(おもい) 遺族が記した明石歩道橋事故(1)2人が、生きた証しを

2022/07/19 05:30

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 出発前。子どもたちは全財産を財布に入れている。千晴は大事に残していた千円札や500円玉と細かい小銭。大は100円玉や10円玉、5円玉や1円玉ばかり。いったい、あのお金で何をするつもりなのだろう。(書籍より抜粋)

 兵庫県明石市・大蔵海岸の花火大会を訪れた11人が群衆雪崩で亡くなった歩道橋事故から間もなく21年。遺族らは今夏、あの日からの歩みを自ら記した「明石歩道橋事故 再発防止を願って-隠された真相 諦めなかった遺族たちと弁護団の闘いの記録」を出版した。混雑で人が亡くなるという群衆事故はどのようにして起きたのか。その内容の一部を彼らの思いとともに紹介する。

 クマの刺しゅうがかわいらしい財布と赤い金魚形のポシェット。有馬正春さん(63)、友起子さん(52)夫婦は、事故で亡くなった長女千晴さん=当時(9)=と長男大君=当時(7)=がお金を入れていた財布を今も手元に置いている。
 ポシェットは大君のもの。「ひも付きやから落とさんように、これに入れたんやろな」と友起子さん。事故の数年前、別の夏まつりで金魚すくいをした大君。夜店の人が厚めの紙を張ったポイをくれたのか。なかなか破れず次々すくえた。「すごい」と人だかりができた。正春さんは「客集め用やったんやろうけど、大はあれで『僕はできる』と思ったんやろな」とほほ笑む。千晴さんもスーパーボールすくいが好きだった。
 しかし、あの日一家は夜店にたどり着けなかった。訪れた花火大会は来場者15万人が見込まれたが、群衆整理の方法は十分協議されず、幅6メートル、長さ100メートルの歩道橋に6400人、1平方メートルに13~15人が密集する異常な混雑に。花火終了後の午後8時45~50分ごろ、群衆雪崩が起きた(明石市事故調査報告書)。
 「歩道橋を一方通行にしたり、入場を制限したりしてくれれば、楽しい夏まつりで終わるはずやったのに」。正春さんは悔しそうに振り返る。
 なぜ本にしたのか。編集作業は普段心の奥に閉じ込めている当時の記憶と向き合うつらい時間だった。その心労からだろう。ヘルペスも患った。やり遂げられたのは「千晴と大が生きた証しと、どうして亡くなっていったかを残すこと。良い弁護士の先生たちに会えた感謝、そして再発防止のため」と正春さん。「普通に暮らしていても突然こんな目に遭う。記録しなければ風化し、同じことが起きる。危険は誰の日常にもあることを伝えたかった」と力を込める。
 「ちゃんと書いたよ」。正春さんは、本を千晴さん、大君が眠る墓に供えて報告した。亡き2人からの宿題に一つ、答えられた気がしている。「いろいろな人に本を手に取ってもらい、事故が起こらないよう備えてほしい」
 あの日から21年。次女(18)、次男(15)に、事故について話すことはないが「読むことで2人も気をつけてくれたらいいな」。友起子さんは「安全が確保されるなら花火大会も開いてもらったらいい。子どもたちも好きやったんやから」とつぶやいた。(松本寿美子)

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