発生から20年の月日が流れた兵庫県の明石歩道橋事故。現場に居合わせた負傷者や遺族、市役所、警察などの関係者…。さまざまな人たちに取材を進める中で、事故がそれぞれの人生に落とした影が浮き彫りになった。1本の記事としては書けなかった証言、埋もれかけていた事実、さらに事故がなぜ起きたのか。取材記録として報告する。(歩道橋事故取材班)
事故で亡くなったのは、0~9歳の子ども9人と高齢の女性2人。「この20年で去来する思いを聞かせてほしい」と犠牲者全員の遺族に取材を申し込んだが、うち3人の遺族には取材に応じてもらえなかった。「取材はもう受けたくない」「(裁判も)すべて終わったので」というのが理由だった。代理人を務めた弁護士は「いつまでも遺族ではいられない人もいる。新しい生活がある人もいるのだから」と話した。
長男・佐藤隆之助君=当時(7)=を失った父親(58)は「(隆之助君の)姉の成長で時間の経過を感じる一方で、隆之助の時間は止まったまま」と語った。当時小学生だった姉は結婚して家を出た。
妻は毎日、夕食を3人分並べて夫婦2人で食べる。隆之助君の部屋は当時のままで、毎日のように出入りするという。「生前と何も変わらない。ただ隆之助が部屋にいないだけ」
長男=当時(3)=を亡くした男性(60)も電話で「息子が生きていればどんな大人になっていたのかと想像するたび、大きく気持ちが揺れ動く」と今も続く苦しさをにじませた。
「変わっていくもの、ずっと変わらないものをただ受け止めるしかない」。整理が付かない悲しみや怒りを抱え続ける遺族の言葉に胸が痛んだ。
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事故発生当時、県警や明石市が発表した負傷者は247人(業務上過失致死傷事件で起訴の対象とされた負傷者はうち183人)。
負傷者は事故後、どのような人生を送っているのだろうか。
県警などの当時の発表資料を基に負傷者をたどり、取材依頼に着手したが、転居した人や亡くなった人もおり、作業は難航した。
6月のある日、明石市太寺に負傷者を訪ねた。一軒家を探すが、該当する住所に立っていたのはアパート。事故後に建てられたとみられ、表札に目を通したが探していた名前はない。
20年-。歳月の壁に取材はたびたび阻まれた。
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「証拠となるビデオテープを警察が隠した」
ある遺族の男性が興奮気味に放った言葉の意味が当初、よく分からなかった。
事故をめぐっては15年をかけた一連の刑事裁判で、当時の明石署幹部や市職員ら計5人の有罪が確定している。
当時、遺族側がこだわったのは、明石署長(2007年に死去)と副署長の責任追及だった。事故の翌年5月、県警捜査本部は、前明石署長をはじめとする警察官5人を含めた計12人を業務上過失致死傷容疑で書類送検。しかし、神戸地検が起訴したのはそのうち5人。署長、副署長は不起訴とした。地検はその理由を「署内にいたため、事故の予見可能性や結果を回避する注意義務違反の立証が困難」とした。
遺族側が「署長たちも現場の状況を確認できた」との見方を強めたのは、県警の監視カメラの存在だ。県警はまつりの前日、歩道橋を見渡せるホテルの上階に監視カメラを設置。当時の警備計画では、雑踏警備より徒歩暴走族対策に力が割かれ、カメラもその一環だった。
事故直後、明石署は取材に対し、「カメラはあったが、録画機能はなかった」と答えたが、その後、説明が大きく変転。最後は「録画機能はあったが、実際には録画していない」という内容に終始した。
遺族代理人を務めた弁護士は「暴走族対策でカメラを設置したのなら、録画していないはずがない」との疑念を口にした上で「カメラで現場が確認できたなら、地検が署長らを不起訴とした根拠が崩れる」と語った。
当時を知る関係者に聞くしかない-。元署員らへの取材に取り掛かった。
