1両目の自責-JR脱線事故 負傷者4人の16年(2)罪悪感
2021/04/25 05:30
電車が衝突したマンションの外壁=2010年4月25日午後0時56分、尼崎市久々知3
■生きててごめんなさい
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当時パート社員で1両目後方に座り、全身打撲のけがを負った兵庫県西宮市の主婦Aさん(48)は脱線事故以降、電車に乗れなくなった。
「気持ちの問題」。親族にそう諭されても体がこわばり、車両への1歩が踏み出せない。大阪の会社にはタクシーで通った。
電車の音、振動で恐怖がよみがえる。心療内科に通い、友人に付き添ってもらって少しずつ乗れる距離、時間を増やした。克服まで7~8年かかった。
事故から約1年後、長女を身ごもった。「一緒に電車で出掛けたい」「この子のために強くなりたい」。小さな命に、勇気をもらった気がする。
最近は、電車でいつの間にか事故現場を通り過ぎることがある。長男も授かり、習い事の送迎にも忙しい。「事故のことで頭がいっぱいだったけど、自分の中で薄れてきてるんかな。良い意味で」
怖さは乗り越えた。事故現場で頭を下げ続ける若い車掌を見た時、JR西日本への不信感も薄らいだ。あの日から、心でぐちゃぐちゃになった毛玉を1本ずつほどいてきた。なのに、消せない気持ちがある。
「生きててごめんなさい」。遺族を思うたびに胸の奥が痛い。周りは「あなたは悪くない」と言ってくれる。勝手に自分を責めている-。そう考えて振り払おうとしても、拭えない。
あの車両で左隣に座り、オーバーランの時に顔を見合わせた高齢女性は亡くなったと知らされた。そばにいた3人が命を落とした。元気でいる自分と、亡くなった人。こんなに大きな差が、なぜできたのだろう。
事故後、母親を亡くした遺族から手掛かりを求めて連絡があった。「何か知らないか…」。その必死なまなざしが、つらかった。
ただ、変化もある。
事故の裁判を傍聴しに神戸地裁に入ると、控室は負傷者、遺族が一緒だった。隠れるように隅に座っていると、声を掛けられた。
「あなたはけがをされた方?」。顔を上げると、娘を亡くした年配の女性だった。「裁判、見に来たんですね。よく頑張られたね」。母が娘に語りかけるような、柔らかい声。「どうぞ」とミカンをもらった。
見渡すと、控室で遺族同士が穏やかに雑談をしている。「すごく救われた気持ちになった。笑ったり和んだり、そういう時間もあるんだと、ほっとした」
たどり着いたのは「申し訳ないという気持ちは、消えない」ということ。電車の怖さを克服できたように「いつかは消せるはず」と長らく信じ、それが「治ること」だと思ってきた。
2年前の4月25日、事故現場で初めて開かれた慰霊式に出席した。遺族が大勢いる。やっぱり涙が止まらない。でも、「ごめんなさい」と思う自分を、もう責めない。泣きたいときは泣く。そう決めた。
「どう考えても消せないんです。だから、自分で答えを出すしかない。私は、この気持ちと生きていく」(大田将之)
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