途絶えた便り、父の残した113通(下)文面ににじむ優しい人柄
2021/08/15 05:30
中後こふみさんが戦地の夫活也さんに送った手紙。帰国を待ちわびる内容だが、届く前に活也さんは亡くなった
暖かな日差しの昼下がり、生きて帰ると信じていた父の悲報が届いた。
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1942(昭和17)年12月、有馬郡貴志村(現兵庫県三田市)。中後家に近所の人が声を震わせ駆け込んだ。「えらいことや。あんたとこの活也さん、戦死や」
3年前に出征した父活也さん=当時(30)=の訃報だった。縁側で子どもの竹馬を作っていた母こふみさんは、はうように家に入り、布団に顔をうずめて泣き叫んだ。26歳のこふみさん、6歳と4歳の兄弟が残された。
夢にも思わぬ訃報だった。2カ月前、こふみさんは活也さんへの手紙に、こうつづっていた。
(戦争に)早く行かれた方は皆帰られましたから、貴男(あなた)も来年の夏くらいには帰られる事でしょうか。第一に子供が喜びます。早く子供に喜ばせたいです。
だが、その約1カ月後、活也さんは南洋パラオ沖で米軍艦に攻撃され、亡くなった。母が送った便箋を父が開けることはなく、宛先不明で戻ってきた。
長男茂さん(84)は、葬儀の様子を親族から聞いたことがある。白木の箱を墓に納め、親戚が交代で土をかけた。茂さんもくわを渡されたが、どうしても嫌だと駄々をこね、母の背中に隠れた。「今思えば、父がいなくなったことに対する小さな反抗だったのかもしれません」
残されたこふみさんは、稲作のわずかな収入で生計を立てた。小さな体で牛を引っ張り、引きずり回されて大けがを負ったこともあった。農閑期は日雇いの土木作業にも出掛けた。茂さんはある時、働きづめの母に何が楽しみで生きているのか尋ねた。こふみさんは「2人が成長して立派になってくれるのが楽しみ」とほほ笑んだ。
父が出征した時、茂さんはまだ3歳。生前の記憶は残っていない。「父はいないと自分に言い聞かせ、覚悟を持って生きていた」と振り返る。
父が家族に宛てた手紙がたんすの中にあるのは知っていたが、読み返すことはなかった。「無意識のうちに目を背けていたのかもしれません」。母も、父の話はほとんどしなかった。
だが活也さんの五十回忌を迎えた頃から、手紙を手に取るようになった。市遺族会青壮年部で戦争体験集を作るなど、当時を振り返る機会が増えたからだ。
「こんなにも家族を思ってくれていたことが、うれしくて。優しくてまめな人だったんだな」。遺(のこ)された113通の文面から、父の姿に触れることができた。
男手を取られて農業に汗を流すこふみさんを、活也さんは何度もいたわった。
内地ではそろそろ田植の準備で忙しくなって来る頃だね。今年は間に合ふ(帰ることができる)かと思ってゐたがまたまた駄目らしい。
無理をしないで朝夕涼しい間だけにして日中は休む様にしなさい。暑い折だから無理をしない様にして待って居て下さい。
「仲のいい夫婦だったんでしょうね」と茂さん。活也さんは、多い時にはほぼ1週間おきに便りを出した。こふみさんも頻繁に返事を書き、戦地でも話題になっていたようだ。
郵便が届く時には必ずお前の手紙が入ってゐる。多い時には三通位一度に来る時もある。戦友達がこふみさんはとても良く便りを書くねと言って感心するよ。信務班の班長がいつも「中後こふみさん郵便」と言って笑いながら持ってきて呉れる。戦友達が僕の事を何時でも「中後こふみさん」と言うんだ。中後兵長等とはメッタに呼ばない。
父の帰りを待つ茂さんらの様子は、こふみさんの手紙に記されていた。
朝おきて、僕夢を見た、お父ちゃんがたくさん僕の好きな兵隊さんのけんやテツハウや、色々なものをお土産を買って帰られた夢を見たと、可愛い事を申し話します。
戦争さえなければ、優しい父と暮らすことができた。母も一人で苦労せずに済んだ。何より、楽しみにしていた兄弟の成長を父に見せることができた。
高齢になった茂さんは5年ほど前から、小学校などに赴き、語り部としての活動を始めた。手紙の複製は屋敷町のふるさと学習館に寄贈し、毎夏の戦争展などで紹介してもらっている。
「手紙を残し、父を奪った戦争というものについて次世代に伝える。戦争を二度と繰り返さないため、僕に課された責務だと思う」(小森有喜)