世界最高峰の舞台で輝いた選手たちがいた。この夏の東京五輪と同じように。90年近く前のことだ。だが、選手たちはその後、いや応なく戦渦に巻き込まれていく。太平洋戦争で命が奪われた「戦没オリンピアン」の話をしたい。メダリストたちの栄光と、その先を--。(中島摩子)
1932年8月7日午後3時30分。ロサンゼルス五輪の競泳男子100メートル自由形決勝がスタートした。
6選手が鮮やかに飛び込む。第2レーンは慶応義塾大学の河石達吾選手。50メートルのターン時点では5位だったが、必死のラストスパートで外国人選手を抜き去り、58秒6の五輪タイ記録で銀メダルを獲得した。
金メダルは58秒2の五輪新記録をたたき出した宮崎康二選手。日本人が金と銀を独占した。3位は米国代表のシュワルツ選手だった。
河石選手は広島県出身で、慶大卒業後は大同電力(現・関西電力)に勤務した。兵庫県神戸市出身の輝子さんと結婚し、同市東灘区の御影で新婚生活を送った。
それからまもなく、召集されて小笠原諸島の硫黄島に出征し、帰らなかった。33歳だった。
硫黄島は東京の南方、約1250キロに位置する。米国が日本本土を空襲するための拠点として狙い、日本は「本土防衛の要」と位置づけて約2万人の兵士を送り込んだ。
河石選手は出征直前、親族に「生きて帰れません」とひそかに告げていたらしい。新婚生活はわずか9カ月間。妻のおなかには赤ちゃんがいた。
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出征から半年後、輝子さんは元気な男の子を産んだ。遠く離れた硫黄島で知らせを受けた夫から手紙が届いた。
〈吉報に接した時の感じは 競技に於いて勝利を獲た時のそれと同じだ〉
〈今日より親爺となった僕に新たな覚悟が必要であると同様 母となった君の責任も軽くはない。産後の養生にはどうか無理のない様充分注意して呉れ〉
誕生の喜びにあふれ、妻をいたわる言葉が続く。
12月30日付けの別の手紙には、名前が大きく記してあった。河石選手が、まだ見ぬ息子に命名したのだった。
〈河石達雄 と呼ぶと いかめしい中にやわらかみもある様に思はれ 非常に立派だ などと 独りで悦に入って居る〉
〈将来日本一の造船技師たるべく勉強させ度いと思ふ(中略)達雄が歩けるようになったならば 日曜毎突堤に出掛けて船を見せてやらう。精巧な船の玩具をあたえよう〉
〈達雄は宝であると同時に 生まれたと言ふそのことだけで 随分親爺にあれこれ考えさせ楽しませて呉れる。有難いことだ。達雄万々歳だ〉
便せん4枚にびっしりとつづられていた。
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1945年が明けた。河石選手の最初の手紙が妻のもとに届いた。
〈元気で新年を迎えました 覚悟も新です 南の島から 君と達雄初め皆様の招福を祈る次第です〉
米軍機の襲撃にふれつつも、〈何のことはなかった〉と記してある。そして〈僕のことを案ずることは要らない 達雄を愛し 母子共に 明朗な日を 送って呉れます様 お祈りして居ます〉と書いてあった。
輝子さんは2月9日までに、達吾さんへの思いを便せん5枚にしたためた。生まれたばかりの息子の写真3枚も同封した。裏には撮影日とともに「生後43日」「生後53日」と記した。
だが、戦局の悪化に伴い、手紙は神戸に戻ってきてしまう。
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輝子さんが手紙を記した10日後の2月19日、ついに米軍が硫黄島に上陸した。日本軍は地下陣地にこもり、壮絶な持久戦を展開した。
その1カ月ほど後、大本営は、日本軍が総攻撃を敢行したと発表する。組織的な戦いは同月26日に終結した。
硫黄島で日本側の死者は約2万人。生き残ったのは約千人だった。
戦争が終わった翌年5月、死亡告知書が輝子さんに届いた。死亡日は総攻撃の日とされる「3月17日」とされていた。
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「お父さんは、必ずどこかで生きている」
輝子さんは一人息子の達雄さんが小学生のころまで、そう言い続けたという。父が死んだとは、絶対に言わなかった。墓も作らなかった。戦争の話はしなかった。
遺骨は戻らず、自宅にあるのは硫黄島の石だけだった。
働きながら1人で息子を育てた輝子さんは、1991年、74歳で亡くなる。数年後、遺品の整理をしていた達雄さんは、タンスの中から古びた手紙の束を見つけた。父が硫黄島から送った手紙だった。6通あった。母から存在を聞かされたことはなかった。心を落ち着かせ、読んだ。
自分の名前が大きく書かれた便せんがあった。「おやじ、どこにでもいる親ばかだったんだ…」とこみ上げた。
もう1通、開封されないままの手紙があった。輝子さんが、戦地にいる夫に向けて書き、神戸に返送された、あの手紙だった。
息子は封を切った。
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〈1日も早く御帰還下さいますやうにとそればかり祈っています〉
〈早く平和な日が来ますやうに〉
生まれたばかりの自分を抱きながら、夫の身を案じる母の姿が目に浮かんだ。
〈達雄は元気で大きな声で泣きます きっと丈夫な赤坊だと思います 安心下さいませ〉
〈いくら爆撃が多くても 硫黄島に 達雄と一緒に飛んでいきたい〉と続き、こう締めくくってあった。
〈大好きな 大好きな 御主人さまへ〉--。
母の熱く切ない感情が、50年のときを経て、よみがえった。
達雄さんは1999年、両親の墓を立てた。入れたのは母の骨と、硫黄島の石。場所は神戸市東灘区の高台を選んだ。
そこからは、2人が9カ月の新婚生活を送った場所が見渡せる。
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時は流れて2021年7月23日。東京五輪が開幕した。
達雄さんは、銀メダリストの父、達吾さんの遺影を持って、自宅のソファーに座った。
「親爺、開会式やで」
写真に話し掛けながら、2人で式の最後まで鑑賞した。
達雄さんはかつて、父の出身地である広島県江田島市の小学校に招かれたことがある。達吾さんが硫黄島から家族に送った手紙を紹介し、子どもたちに語り掛けた。
「親は子どものこと、一生懸命思っているんだよ」
同市ではその後、達吾さんの手紙を題材にした道徳教材も作られた。
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達吾さんのような「戦没オリンピアン」は、曾根幹子・広島市立大名誉教授の調査で全国に38人いたことが分かっている(2021年7月末時点)。
戦没オリンピアンは私たちに伝える。
「栄光」の先を奪った戦争を。
かけがえのない命を。
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