戦後76年 100歳ランナーの軌跡(中)

2021/09/30 05:30

出征前にもらった寄せ書きを見ながら話す永田さん=三田市

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 24歳で終戦を迎えた永田光司さん(100)=兵庫県三田市=は、中国で1年間の捕虜生活を経て、1946(昭和21)年6月にふるさとに戻った。
 捕虜の期間に身を寄せていた中国人集落では、これまで命を懸けて対峙(たいじ)してきたにもかかわらず、家族同然の扱いを受けた。日本人に支給される食事も分け合って暮らした。帰国する際には、「船に乗る時、海に落ちないよう気をつけて」と冗談っぽく笑い、涙を流しながら送り出してくれた。
 三田に帰り着き、毛布を抱えて歩いていると、近所に住む菓子店のおかみさんから声を掛けられた。「よう帰ったな永田さん。うちの息子はだめやった」。初めて、他の戦地の話に触れた。
 出征前に勤めていた大手商社は当時、「店のことは一切忘れ-南方の輝かしき戦果に報ゆべく全力を盡(つく)し」と記した通知で、永田さんを華々しく送り出した。
 戦後、大阪にある会社の席は先に戦地から帰還した人らで埋まっていた。北海道なら空きがあると言われた。「少し考えます」と返事をすると、2、3日で退職金が振り込まれた。出兵中も給料をもらっていたし、田舎住まいだから食べ物はなんとかなるだろう。数年間は日本中を巡り、戦友を訪ねることにした。当時の部下に会い、生きて帰れたことを喜び合った。
 28歳、鉄鋼関係の会社に就職し、大阪や東京で働いた。「鉄は国家なり」と言われた高度経済成長期。鋳物屋に銑鉄を売り歩いた。家庭を構えていたが、ほとんど帰らなかった。「仕事でって? ちゃうよ、その後飲みに行ってたんや。あの頃は芸者遊びの時代でね」
 取引先に同じ陸軍の学校を出た人がいると、当時の思い出で契約が決まることがあった。50歳手前で取締役になると、戦争を経験していない部下の指導に自らの体験を持ち出した。軍隊の原則を記した「作戦要務令-現代企業に生かす軍隊組織」を手に、よく判断すること、尻込みをしないことなどを言って聞かせた。
 効率ばかり重視せず、営業でも1駅2駅は歩いて行くように伝えた。強い体や心が会社を作ると思った。
 「(戦争を経験していない人とは)だいぶ違うんだぜと威張ってたとこもあったかも」と振り返る。もうそんな時代じゃないと言われればそこまでだが、現代にも通ずるところはあると信じた。
 しかし同じ戦争を経験していても、「軍隊の話をしたら、取引がうまくいかなくなる」という人もいた。訓練に耐えられず命を絶った仲間がいた。激戦地から命からがら帰ったという話を聞いた。「戦争は人間としての行為じゃなかった」。思い出したくない人がいて当然だとも思う。
 戦争を語る時、多くの人が軍隊を非難する。「もちろん人を殺す戦争はやっちゃいかん」。それでもあの5年を自分なりに生かそうとした。いつ死ぬか分からない戦地を生きた。規律を守って鍛えられた精神が、戦後の経済復興を支えたという自負は、今もある。(喜田美咲)

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