定点撮影15年、5000枚…神戸の復興語り継ぐ 三田の男性「被災地との温度差が悔しかった」

2022/01/17 04:00

震災直後、満福寺から鷹取商店街を見渡す。がれきの山を前に、荷物を抱えた人たちが立ち尽くす=神戸市長田区海運町4(山下さん提供)

 「『絶対』は絶対に無いんやで」。兵庫県三田市に住む山下義和さん(71)は、子どもたちに語りかける。およそ5千枚。27年前のあの日から15年、変わり果てた街が復興していく様子を定点で撮り続けた。10年がたった頃から、写真をもとに、自分ごととして考える大切さを伝えている。被災地から離れて感じた温度差が悔しかったから。(喜田美咲) 関連ニュース センバツ出場校の甲子園練習始まる 東洋大姫路の渡辺主将、初の聖地に「すごく広く感じた」 伊丹・宝塚市長選、投開票まで1カ月 現職退任で構図変化 政活費不正流用問題 光本氏に議員辞職求める 尼崎市会百条委が報告書案を提示


 三方の外壁が落ちて、一方だけになった銀行。真ん中の階が押しつぶされ、低くなったビル。液状化した道路。焼け野原。線路沿いの鉄塔はあめ細工のように何度もねじれていた。スクラップブックに並ぶ記録は、場所ごとにインデックスで分けられている。
 阪神・淡路大震災が起きた1995年1月17日、揺れで目が覚めた。三田の自宅でも電子レンジが落ちて床がへこんだ。電車は止まった。神戸市中央区にある勤め先の様子を見に、四輪駆動車を走らせた。
 三宮へ入り、がれきの上を進む。当時、建設コンサルタントの一般社団法人で、事務所長をしていた。街には携わってきた建築物もある。事務所の中から電話の音が聞こえるが、扉はゆがんで開かない。今できるのは「地震で建物がどうなったか知ることだ」と、フィルムカメラを持って外へ出た。
 中央区から長田区まで、3、4日かけて撮り歩いた。生まれ育ちは長田区本庄町。遊んでいた街の面影はなかった。「住宅街では小さな公園や広い通りで火事が止まっている」「柱の中の鉄筋は全方位に広がるようにひしゃげている」。動揺しながらも、記録を続けた。
 翌年、福岡・博多へ転勤になったが、毎年1月17日が近づくと、JR三ノ宮駅から長田区の鷹取駅までを1日かけて歩いた。何年で街が戻るか見ておきたかった。撮影ポイントは100カ所ほど。焼け落ちて遠くまで見渡せたところは、少しずつ体を回転させて撮った写真をパノラマのようにつなぎ合わせた。
 長田区の満福寺から鷹取商店街があったはずの方角を見渡す。焼け焦げた鉄骨が転がる土地に、傾いた電柱だけが伸びる。まず道ができた。更地に少しずつプレハブが建った。1年ごとに見比べる。これからの構造物の耐震基準を見直すための資料として、仕事では生かせた。しかし10年たつまで、わが子には写真のことを言えなかった。子どもの友人も犠牲になっていた。
 博多にいた3年半の間に、官公庁を相手に被災経験を踏まえた提案をすると「そんなつらい話しないで。九州で地震は起きないから」と言われたことがあった。時間や距離が遠くなると、気持ちも離れてしまう危機感を覚えた。三田と神戸ですら意識の差は否めなかった。
 2005年、取り組みを知った人から依頼が入り、自身の経験を話すようになった。三田市内の小学校はもちろん、愛媛県の学校や大阪府の自治会などにも赴いた。写真を追悼行事に貸し出した。
 まず写真を見せて、その恐ろしさを知ってもらう。「本当にあったことなのか」と目を疑う子どもたちの様子が、語り続けていかねばならないと思わせてくれた。自身も語り部から聞いて学んだ。普段からあいさつをして、近所の顔を見知っておくことや、過信せずに備えておくことを伝えた。
 震災から15年後の2010年ごろ、撮るのをやめた。写真で見ると景色が変わらない、「復興が止まったように見えた」からだという。ただ、空き地や空き施設など、「まだ人が戻っていない」と今月、新長田駅周辺を歩いて感じた。震災から30年になる2025年に何が見えるか。最後の撮影をしようと考えている。
【特集ページ】阪神・淡路大震災

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