村長の決断「相生を西の神戸に」ドック誕生から世界首位の造船所までの歩み
2021/04/01 05:30
1912年に完成した相生最初のドック=(相生市立歴史民俗資料館提供)
播磨灘は揖保川以西になると、海岸線の屈曲が鋭くなる。特に兵庫県相生市は瀬戸内屈指の天然の良湾で、古来、内海航路の避難港になっていたという。相生湾の漁村だった相生村の地の利を生かし、明治の終わりに造船の町の原点となるドックが建設された。「相生を『西の神戸に』」。地域の未来を造船業に託したのは、村長だった。ドック誕生の経緯から、戦後、世界首位の造船所となるまでの歩みを紹介します。(段 貴則)
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村長の名は、唐端(からはた)清太郎(1862~1920年)。相生村長・町長を23年間務め、県議会議長、衆院議員を歴任する一方、漁業組合や遠洋漁業会社の設立など、地元水産業の振興にも力を注いだやり手だった。
その唐端が1907(明治40)年、船渠(せんきょ)(ドック)建設に立ち上がった。「ドックを作れば大型船が入港して人が集まり、相生が世界につながる」。いち早く開港した神戸の繁栄を目の当たりにして決断した。播磨船渠株式会社を設立し、専務に就任。村民たちも出資して「わしらのドック」建設を後押しした。
12(明治45)年1月、唐端が夢見たドックを完成させたのは、事業を引き継いだ別会社だった。完成目前にドックが崩れ、播磨船渠は破綻。現在の価値で設立時50万円以上とされる株券は、はがき1枚分の価値になったという。
修繕用ドック一つを構えた小さな造船所を原点に始まった相生の造船業。直後、第1次世界大戦に伴う造船需要が急拡大した。
唐端が再び動いた。神戸を拠点に明治から大正にかけて隆盛を極めた総合商社・鈴木商店を頼った。造船所の買収・拡張を願い出るため、社主・鈴木よねを訪ねた。
鈴木商店記念館のサイトには、このときのエピソードが記されている。鈴木商店の大番頭・金子直吉に門前払いにされた唐端が、門前に夜を徹して座り込み、金子を動かした-。
16(大正5)年、鈴木商店が造船所の事業を引き継ぎ、播磨造船所に改称した。唐端の願い通り、造船所を拡張させた。
「相生を『西の神戸』に」。唐端の夢と重なる金子の訓示が、播磨造船所50年史にある。南北朝時代の武将・楠木正成が知略を尽くし、大軍を相手に乏しい戦力で立ち向かった故事を引き合いに「他の造船所に比べて誠に貧弱であるが、先進造船所に負けないような立派な船を造ってもらいたい」
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戦前、海運国日本を支えたが、戦後、大型船の新造を禁じられた播磨造船所。捕鯨船団の母船「図南丸」の全面改修を機に、再び造船の町もドックも息を吹き返した。
大きな転機となったのが1960(昭和35)年。石川島重工業と合併し、社名を「石川島播磨重工業」に改めた。
高度経済成長の波に乗り、ドックがある相生第一工場(当時)が62~64年、1年間に進水させた船の総トン数で世界首位の造船所となった。
造船所そばの高台には、昭和初期に建立された唐端の碑が立つ。湾内や対岸の住宅街が見渡せ、造船に託した地域の未来を見守り続けている。