ヒロシマ75年 被爆2世の男性「母が背負った苦しみ継ぐ」
2020/08/06 15:00
今年亡くなった母を思い、初めて神戸から平和記念式典に参列した山本裕治さん=6日午前、広島市の平和記念公園
■兵庫県遺族代表山本裕治さん(65)
関連ニュース
原爆の傷、カルテには「good」 米国の記録に神戸の女性憤り
膝が、ざくろの実のように割れた… 大阪大空襲の悲惨な経験、紙芝居で語り継ぐ女性
マイナス30度、兵舎の外に4時間交代で立つ…日本最北端、厳寒の占守島で命懸けの見張り
母は胸の内に抱えた思いを、最期まで明かさなかった-。初めて平和記念式典に出席した兵庫県の遺族代表で被爆2世の山本裕治さん(65)=神戸市灘区=は、今年2月に89歳で亡くなった母の充子(みつこ)さんを思いながら、参列者の中にいた。
母から聞いた被爆体験はごく断片的だ。75年前、15歳だった充子さんは広島で市バスの乗務員をしていて、爆心地から約1・5キロの車内にいた。通勤ラッシュの時間帯で大勢の人に囲まれていたため、奇跡的にやけども負わなかった。ただ周りから子どもやお年寄りの声で「助けて、助けて」と聞こえてきた。「どうすることもできなかった」と悔やみ続けていたという。
夏が巡ってくると、充子さんの気分が落ち込むのが裕治さんの目にも明らかで「詳しく聞きたくても聞けなかった」。ただ原爆の悲惨さを描いた漫画「はだしのゲン」を全巻そろえてくれた。15年前には一緒に広島平和記念資料館を訪れた。自分が助かった負い目からか、体験をほとんど語らなかった母だが、「何とか息子に伝えようとしてくれていたのか」と今は思う。
この日、充子さんの名が入った原爆死没者の名簿が原爆慰霊碑の石室に納められた。「75年間、口にできないほど母は苦しんでいた」。そう思うと「胸にぐっと迫るものがあった」と裕治さん。「悲惨なことが二度と起きないよう、私も若い世代に歴史を伝えていきたい」との決意を新たにした。母が背負ってきた苦しみ、痛みを引き継いで。(小谷千穂)