真珠湾攻撃で戦死「死後の選別」 太平洋戦争開戦79年

2020/12/08 05:30

真珠湾攻撃の戦死認定者に対する2階級特進を報じる1942年7月8日付の新聞紙面。6人を除いた「四十九勇士」の表現が確認できる

 79年前、太平洋戦争が始まったハワイ・真珠湾攻撃で戦死認定を受けた日本海軍の航空兵55人について、その処遇に格差があったことが分かった。当時の軍部は、戦意高揚につなげようと、異例の「2階級特進」を適用したが、兵庫県出身の岩槻國夫さん=当時(20)=を含む6人だけが除かれ、1階級の進級にとどまっていた。同じ作戦に基づき、同じ戦闘に、同じ航空部隊から参加して命を落とした兵士で分かれた判断の背景に、識者は「死後の選別」があったと指摘する。(小川 晶) 関連ニュース 本音言えば「半殺しに遭う」 特攻隊志願、事実上の強制 妹の最期「母ちゃんに抱っこうれしい」 壮絶逃避行を手記に 「人の命が下っ端ほど軽く扱われる」特攻隊員と戦争の現実

■専門家「軍上層部判断で格差か」
 「海軍武官進級令」などによると、太平洋戦争の戦死者に対し、軍部は当時の階級から一つ進級させ、特に功績が顕著と認めた場合などは二つ昇進させる規定があった。残された家族らに支給される恩給などは階級が高いほど高額で、その死に報いるほか、国民の戦意高揚につなげる狙いがあったとされる。
 神戸新聞社は、真珠湾攻撃に参加した航空部隊の「戦闘行動調書」(防衛研究所蔵)や当時の新聞紙面などで戦死認定者を調査。全55人について、出撃時と戦死認定後の階級を1人ずつ確認したところ、49人が2階級特進し、一等飛行兵から三等飛行兵曹になった岩槻さんら6人が通常の1階級昇進にとどまっていた。
 この格差には、どんな背景があったのか。日本海軍史研究家で、大和ミュージアム(広島県呉市)館長の戸高一成さん(72)は「特進の判断基準は極めてあいまいで、分かっていないことが多い」と前置きしたうえで、こう分析する。
 「6人は、戦死した状況が悪かったということです。言葉を選ばずに言えば、華々しく死んでいない」
 太平洋戦争の公的な記録とされる「戦史叢書(そうしょ)」などによると、6人は、攻撃後に帰還できなくなって不時着、行方不明になるなどしていた。攻撃のさなかに被弾して墜落するなどした航空兵に比べると、戦意の高揚につながるような最期ではない-との説明だ。
 戦時資料研究家の古舘豊さん(71)も、6人が明確な意図によって選別されたとみる。「軍の上層部からしたら、兵隊は駒のようなもの。特進者を多く出せば、それだけ恩給などの額が増えるという冷徹な判断が働いた可能性がある」と話す。
 6人のうちの一人だった岩槻さんは、兵庫県北部に位置する山深い旧兎塚(うづか)村(現香美町村岡区)の出身。「死後の選別」の事実を知った遺族は、言葉を失った。
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■「同じ戦死、なぜ差をつける」
 兵庫県兎塚(うづか)村(現香美町村岡区)出身の岩槻國夫さん=当時(20)=は、真珠湾攻撃で命を落とした唯一の兵庫出身者だった。めいの石井七重さん(80)=大阪府吹田市=は、岩槻さんの処遇が他の戦死認定者と異なっていた事実を知ると、しばらく押し黙り、ぽつりと漏らした。「同じ命なのに、何で差をつけられないといけないんですか。一思いに撃墜されればよかったということですか」
 真珠湾攻撃当時、1歳になったばかりだった石井さん。直接の面識はないが、岩槻さんの実家の魚屋で育ち、生前のエピソードを家族から聞かされていた。
 7人きょうだいの次男で、勉強、運動神経とも抜群。穏やかな人柄だったが、下ろしたての服をけんかでぼろぼろにするようなわんぱくさもあったという。尋常小学校を卒業後、「家は貧しいし、きょうだいも多いから」と旧制中学への進学を諦め、1939(昭和14)年6月、18歳で志願して海兵団に入った。
 翌40(昭和15)年6月、航空兵に転科し、艦上爆撃機の操縦員として航空母艦「翔鶴」から真珠湾攻撃に参加した。「戦史叢書(そうしょ)」などによると、帰還途中に迷い、「母艦の位置を米軍に探知されないよう、(方角を伝える)電波の照射を求めない」との取り決めを忠実に守って海上に不時着、戦死したとされる。
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 戦死の一報が家族に伝えられたのは、攻撃から半月ほどたった41(昭和16)年12月末だった。2歳下の妹、佐藤きよ子さん(97)=東京都荒川区=によると、家族は岩槻さんが最前線に出ていたことすら知らず、その死を信じられなかったという。
 近所の人たちの弔問が夜遅くまで続き、「よくやったね」「立派だったね」と声を掛けられた。佐藤さんは、悲しみを押し殺して「誉れ」と思おうとした。
 いつだったか、岩槻さんが他の戦死認定者と同じように特進していないと家族で話題になった記憶がある。だが、誰も深入りせず、その場限りとなった。「特進しなかった理由だとか階級だとか、どうでもよくて。ただただ、生きていてほしかったんです」と佐藤さんは振り返る。
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 終戦から75年が経過し、岩槻さんの遺品はほとんど残っていない。石井さんの手元には、たった1枚の写真があるだけだ。
 「人の死を冷徹に選別されるような時代に生まれなければね。何を言っても、もう諦めるしかないんだけど」。岩槻さんの端正な顔立ちを見つめながら、石井さんが声を落とす。
 今でも年に2回ほど、故郷の国道沿いにたたずむ岩槻さんの墓を訪ね、手を合わせている。同行するのは、石井さんの孫の岩槻光栄(みつひで)さん(25)。幼い頃に家族から岩槻國夫さんの話を聞き、関心を抱いたという。
 「國夫さんのような人たちがいたから、僕たちの豊かな生活があると思えてきて」と話す光栄さんだが、やりきれなさも残る。
 「20歳という、何でもできるときに亡くなったわけですよね。『そういう時代だったから』と言えばそうなんでしょうけど、やっぱり信じられない」
【真珠湾攻撃】1941年12月8日(日本時間)、日本軍の機動部隊が、米ハワイ・オアフ島の真珠湾にあった米軍基地や太平洋艦隊を急襲した。約2400人の米国人が死亡。日本側の戦死認定者は、航空部隊の55人のほか、特殊潜航艇の9人(全員が2階級特進)。日本は米英に宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。
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