
1941(昭和16)年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃で戦死認定された航空兵55人には、冷徹なまでの「死後の選別」があった--。79年前のきょう、太平洋戦争の戦端を開いた戦果を受け、攻撃に加わって亡くなった彼らに対し、軍部は異例の「2階級特進」を適用した。だが、この処遇から6人だけが除かれ、1階級の進級にとどまっていたことが分かった。敵前逃亡など、あからさまな咎(とが)があったわけではない。同じ作戦に基づいて、同じ戦闘に、同じ航空部隊から参加して命を落とした兵士に、なぜ明確な格差が生じたのか。(小川 晶)
神戸新聞社の神戸本社11階、文化部フロアの片隅に、年季の入った1台のコンピューターがある。1990年代のデスクトップパソコンのような、厚みのある外観。社内では「マイクロフィルム」の名で通る。過去の新聞記事が焼き付けられたフィルムを、コマ送りで見ることができる装置だ。
航空機事故を取材する新聞記者がテーマの人気小説「クライマーズ・ハイ」で、「大久保・連赤(れんせき)」の記事を探すシーンに登場する--と言えば、ピンと来る人もいるだろうか。コンピューターとはいえ、検索機能などはなく、まさにアナログの極み。日付や掲載面を頼りに、手元のレバーでフィルムを回し、該当する記事をたどっていく。
2018年9月、報道部で大型連載の取材班に加わっていた私は、日がなこの装置と向き合っていた。調べていたのは、祭りどころ・姫路の「灘のけんか祭り」。毎年10月14、15日に開催される伝統行事がどのように報道されていたのか、社内の記事データベースが網羅していない時期まで、さかのぼれるだけさかのぼろうとしていた。
装置の脇にフィルムを積み上げ、10月中旬の紙面にひたすら目を凝らす。記事が見つかれば、プリントアウトして保存する。単純作業の繰り返しに、目をしばたかせて画面を追っていたとき、「横幕」と呼ばれる白抜きの大見出しが飛び込んできた。「大東亜戦争初の論功行賞」。1942(昭和17)年10月16日付の朝刊1面だ。

レバーを握る手が止まった。個人的に長く戦争取材と向き合ってきたこともあり、本能的に見出しを追っていく。前年12月の太平洋戦争開戦以降、特に軍功があったと軍部が認めた戦死者をたたえる内容だ。
その中に、「布哇空襲部隊」という太字を見つけた。布哇は「ハワイ」と読む。真珠湾攻撃で戦死した全ての航空兵の名前と階級、出身地が列挙されている。

こういう場合、地方紙の記者が考えるのは、地元出身者を探すこと。画面に顔を近づけ、小さなフォントを指でなぞっていくと、1人だけ該当者がいた。「三飛曹 岩槻國夫 兵庫」。それまでにも、真珠湾攻撃に参加した兵庫出身の航空兵を何人か記事にしており、関係する取材もそれなりに踏んでいたが、聞いたことがない名前だった。
さっそく、社内の記事データベースに名前を入力してみる。いろいろ条件を変えてみても見つからない。少なくとも、ここ数十年は紙面で取り上げられていないようだ。どんな人だったのだろう。わだかまりを残しつつ、追加の情報が得られなかったこともあり、その場では再びけんか祭りの記事検索に戻った。

それから、2年が経過した。この間、岩槻さんのことは頭の片隅にあったものの、姫路本社への異動など個人的な事情もあり、本格的な取材に踏み出せないでいた。
迎えた2020年。終戦75年の節目に、神戸新聞をはじめ、各媒体に関連のニュースが載る。戦争を体験した世代はおろか、一つ下の世代ですら高齢化が進んでいる。「これ以上、取り置くことはできない」と考えていたタイミングで、神戸本社への異動が決まる。突き動かされるように、印刷しておいた岩槻さんの記事コピーを引っ張り出した。
さて、どうするか。戦争取材を進めるに当たって、とるべき手法はそう多くない。まずは、常道から。私は、「アジ歴」に手掛かりを求めることにした。
アジア歴史資料センター、略してアジ歴。終戦から75年が経過し、事実関係の確認が極めて難しくなる中で、その存在感は大きい。国立公文書館や外交史料館、防衛研究所戦史研究センターなどが保管する、予断を排した貴重な一次資料を横断的に閲覧できる電子資料センターだ。

国立公文書館が運営し、インターネットを通じて誰でもアクセスできる。公開対象も検索機能も年々向上している。真珠湾攻撃の資料を探す場合、当時の呼称に合わせて「布哇」をキーワードに入れるなど一工夫が必要だが、根気さえあれば、何らかの資料にたどり着く。
取りあえず、岩槻さんが所属していた航空母艦を探すことにした。航空母艦とは、飛行甲板を備えた軍艦で、「空母(くうぼ)」と略される。真珠湾攻撃に参加した航空機は、赤城、加賀、蒼竜、飛竜、翔鶴、瑞鶴の空母6隻から飛び立っており、それぞれの艦の「飛行機隊戦闘行動調書」に、出撃した隊員名が記されている。

岩槻さんの名は、翔鶴にあった。目標目掛けて急降下し、爆弾を投下する2人乗りの艦上爆撃機の操縦員で、階級は「一飛(一等飛行兵)」と記されている。論功行賞の記事にあった「三飛曹(三等飛行兵曹)」と食い違うが、不自然なことではない。陸海軍とも、戦死者は進級するのが通例だった。岩槻さんの場合、真珠湾攻撃の戦死認定で、一飛兵から一つ上の三飛曹になったと考えられる。
ただ、この処遇に違和感を抱いた。
真珠湾攻撃の戦死認定者は、2階級特進という異例の対応がとられた--との話を、何かで読んだことがあった。岩槻さんなら、三飛曹のさらに一つ上の、二飛曹になっていなければおかしい。2階級特進というのは、記憶違いなのだろうか。

アジ歴で検索できる他の空母の資料も当たってみた。戦死認定者の出撃時の階級を一人ずつ調べ、論功行賞の記事の階級と突き合わせていく。大尉が中佐に、二飛曹が飛曹長に。2階級特進者が続々と確認できる。岩槻さんと同じ一飛兵から、二飛曹になった人も、現にいた。真珠湾攻撃で亡くなった航空兵55人を調べ終えたとき、岩槻さんを含む6人だけが、「例外」だったことが分かった。
「何だ、この格差は」
思いがけず、言葉が漏れた。

他紙の新聞記事など関連資料からも「55分の6」の裏付けをとった私は、特進の処遇がとられた背景を調べることにした。鍵は、岩槻さんの階級に私が違和感を抱くきっかけとなった文献にある。そう考え、改めて自宅の書棚を見渡したところ、「真珠湾攻撃総隊長の回想」(講談社)に目が留まった。
航空部隊を指揮した士官、淵田美津雄さんが、戦後になって著した自叙伝だ。ページを繰っていくと、該当の記述が見つかった。真珠湾攻撃の翌42(昭和17)年、海軍兵学校同期の航空参謀と交わした会話で、淵田さんがこう述べている。
「別に功名争いじゃないがね、飛行機隊では腐っているんだ。特殊潜航艇は九人だからというので、さっさと二階級進級させて、軍神とまで祭り上げているが、空中攻撃隊の方は、五十五人とあって数が多数過ぎるというのでは、納まらないよ。二階級進級は、戦果よりも寡少価値かというわけでね」(原文まま)

真珠湾には、航空部隊のほかに、海からも特殊潜航艇が攻撃を仕掛けており、乗組員9人が戦死していた。この年の3月、海軍はこの9人のみを2階級特進させると発表したため、55人を失った航空部隊から不満が出ている--という趣旨だ。結果的には、4カ月遅れで航空兵も同等の処遇を得ることになる。淵田さんの著作では、航空部隊側から強い働き掛けがあった経緯にも触れているが、55人の中から6人が除かれた事実は記されていない。

再びアジ歴で資料をたどり、航空部隊の特進発表が7月7日と分かった。その内容が掲載されている翌8日付の神戸新聞をマイクロフィルムで確認すると、当たり前のように、6人を省いた「四十九勇士」という表現が使われていた。他の新聞でも、「燦たり海鷲四十九勇士」(朝日新聞)、「武勲抜群の四十九勇士」(名古屋新聞)といった見出しが踊る。
基礎資料はそろった。いよいよ、「死後の選別」の理由をたどるだけとなったが、アジ歴でいくら調べても、参考になりそうな文書が見当たらない。防衛庁防衛研究所戦史室(当時)が編集した太平洋戦争の公的記録である「戦史叢書 ハワイ作戦」でも、「連合艦隊司令長官は(機動部隊などに対し)感状を授与した」という記述にとどまり、戦死認定者の進級については触れていない。
文書類の調査で行き詰まったら、人を頼る。
私は、識者の知見をうかがおうと、戦争取材でため込んだリストを見返した。真珠湾攻撃についての著書がある専門家ら数人の連絡先をたどり、話を聞いてみたが、2階級特進から漏れた6人を把握している人はいない。
そんな中で、「あの人なら知っているかも」と複数人が名前を挙げたのが、戸高一成さん(72)だった。「大和ミュージアム」(広島県呉市)の館長であり、2019年には「海軍反省会」(PHP研究所)で菊池寛賞も受けた日本海軍史研究の第一人者だ。

数年前に一度、取材したことがあり、さっそく電話を掛けると、快く応じてくれた。これまでの経緯を伝えたところ、2階級特進した人と、1階級の進級にとどまった人がいることは漠然と把握していたそうだ。ただ、特進から除外されたのが6人という事実は知らなかったという。驚きを隠さず、端的に感想を述べた。
「(両者の割合が)半々ならともかく、6人だけ例外だったとは……。ずいぶんな差別ですね」
戸高さんによると、2階級特進は、兵士や国民の戦意高揚のために定められた制度であることは想像に難くないという。根拠となる「海軍武官進級令」では「敵前ニ在リテ殊勲ヲ奏シ首将之ヲ全軍ニ布告シタル者」か「抜群ナル勇敢ノ行為アリ功績顕著ニシテ軍人ノ亀鑑トシテ海軍大臣之ヲ海軍全般ニ布告シタル者」などがその条件とされているが、戦局に左右されるなど運用基準は極めてあいまいで、分かっていないことが多いという。
そして、一つの助言を与えてくれた。6人が、どのように戦死したかを調べてみれば、何か分かるかもしれない--。

私は、これまで集めた基礎資料を見返すとともに、「参考になるかも」と戸高さんが挙げてくれた関連書籍を読んだ。唯一の兵庫県出身者である岩槻さんの最期については、同じ機体に偵察員として乗っていた熊倉哲三郎さんとともに、先述した「戦史叢書 ハワイ作戦」などに記されている。
「帰路を失すると、『われ不時着す』と報告し、『天皇陛下万歳』を最後に行方不明となって戦死した」
目印がない洋上で方角や現在位置が分からなくなった場合、搭乗員は、母艦に電波を出してもらって帰路を確認するのが通例とされる。だが、真珠湾攻撃では、艦隊の位置を米軍側に把握されることを恐れ、電波を求めないよう搭乗員で取り決めており、岩槻さんは忠実に守って命を落としたとみられる。同乗の熊倉さんもやはり、一飛から三飛曹へという1階級進級にとどまった6人の1人だった。

残る4人は、全員が二飛曹から一飛曹へという1階級進級者。佐野清之進さん、羽田透さん、石井三郎さんの3人は、「零戦」として知られる1人乗りの艦上戦闘機の操縦員で、岩槻さんと同じように、帰還途中に行方不明になるなどしたとされる。
菅谷重春さんは、3人乗りの艦上攻撃機の偵察員で、「機上戦死」との記録が残る。他の2人が機体とともに生還していることから、空戦中に米軍機の機銃掃射を受けるなどして、1人だけ亡くなった可能性がある。
この結果をまとめたうえで、戸高さんに改めて連絡をとると、二つの可能性を挙げた。

一つ目は、6人とも、海軍兵学校を出た「エリート士官」ではないこと。日本海軍では、将校として部隊の指揮権を握れるのは兵学校出身者に限るなど、厳然たる線引きがあった。処遇にも明確な差があり、現に真珠湾攻撃で戦死認定を受けた兵学校出身者3人は、当時の新聞紙面でも顔写真入りで大々的に取り上げられている。
亡くなった人に仮定の話を持ち出すのは気が引けるが、もし6人が兵学校の出身者だったら、との考えが脳裏をよぎる。

そして、現実的な可能性だという二つ目。戸高さんは「どう表現していいのか難しいですが」と前置きしたうえで、こう指摘した。
「戦死した状況が悪かったということです。言葉を選ばずに言えば、華々しく死んでいない」
2階級特進した49人は、米軍の反撃で撃墜され、あるいは被弾して自ら基地に突っ込んだりしたと「認定」されている。それに対し、6人は、空母に戻る途中に行方不明になったり、不時着したりして亡くなっている--との説明だ。攻撃の際に具体的な戦果を挙げたか、挙げなかったかではなく、確認がとれた最期の状況のみで判断されたことになる。
戸高さんによれば、真珠湾攻撃は、日本側が準備を整えたうえでの奇襲だったこともあり、各機体の攻撃や被害の状況が、他の戦闘に比べて詳細に分かっているという。だからこそ、55人全員をひとくくりにするのではなく、個別の状況を精査することができたというわけだ。
例外もあった。零戦の操縦員だった一飛曹の西開地重徳さんは、空戦に巻き込まれてハワイ諸島のニイハウ島に不時着し、数日後、先住民に殺害された。戦死でないにもかかわらず、当時は不時着の様子が確認されなかったことから、交戦中の自爆とみなされて2階級特進した。55人が「戦死者」ではなく、「戦死認定者」と表現されるのは、このためである。

ここで、改めて別の識者の意見も聞いてみた。十数年前からたびたびやり取りしている戦時資料研究家の古舘豊さん(71)。かつて平和祈念展示資料館で学芸員として勤め、太平洋戦争について幅広い知識を持つ。戸高さんの説明を伝えたところ、「私もそう思いますね」とうなずき、続けた。
「軍の上層部からしてみたら、兵士なんて駒に過ぎないわけですよ。海軍兵学校出のエリートならともかく、よほどのことがない限り、一人一人の死にこだわるなんてことはない。それが、戦争なんです。戦死者の遺族には一時金や年金が支払われるわけで、『少しでも金額を抑えなければ』という考えがあった可能性もあると思います」
岩槻國夫さんという一人の兵士の死からたどり着いた、「死後の選別」の事実。残された家族は、このことを知っていたのだろうか。当時、どのように岩槻さんの死を受け止めたのだろうか。そもそも、岩槻さんは、どのような人だったのだろうか。
私は、家族の所在をたどることにした。
個人情報の保護が厳しくなった今、特定の人物の足取りを追うのは極めて難しく、公開されている情報を頼りにするしかない。最大の手掛かりは、「岩槻」という姓。電話帳で調べてみると、兵庫県内にはそう多くなく、山深い県北部の香美町村岡区に数軒固まっていることが分かった。
この中に血縁者がいると信じ、順番にかけていく。既につながらなくなっている番号も多い。そんな中で、電話に出てくれたある岩槻姓の女性が「うちの直系の親族ではないですが、近所に住んでいたはずですよ」と教えてくれた。
さっそく、現地に向かって話を聞く。女性は86歳で、真珠湾攻撃当時は7歳だった。岩槻さんのことはほとんど記憶になかったが、岩槻さんが「魚松」という魚屋の息子だったことだけ覚えていた。魚松があった場所を案内してくれたが、既に店はなく、民家が建っていた。周辺の家々のインターホンを鳴らして尋ねてみたが、みな首をかしげるばかり。「真珠湾攻撃の戦死者が近くにいた」という事実すら、誰も知らなかった。
文献に何か残っているかもしれないと考え、地元の図書館に足を運んだ。1982(昭和57)年に出版された「村岡町誌」をめくってみたが、昭和期の記録は全く載っていない。
資料の調査で行き詰まったら、次は人--。「死後の選別」を調べる過程と全く同じ発想で、村岡の歴史に詳しい郷土史家の男性(85)に連絡をとった。これまでの経緯を説明し、岩槻さんの家族に会いたいと伝えると、「人づてに聞いてみるので、ちょっと待っていてください」と快く協力してくれた。
ほどなく電話が返ってきた。岩槻さんの親族の女性が大阪府吹田市に住んでいることとともに、岩槻さんの墓が村岡に残っていると教えてくれた。男性の案内で、国道9号沿いの墓地を訪ねると、岩槻家代々の墓石の傍らに、岩槻さん個人を悼む石柱が一つ、立っている。
文字は深く刻まれ、80年近くたった今もはっきりと判読できる。戒名の「顕功院殉譽義岳國夫居士」を見て、男性がつぶやいた。「『院号』が入っているでしょう。特別な人にしか使われないもので、当時はそれだけあがめられたということですよ」
墓石には、「海軍三等飛行兵曹」という1階級進級後の階級とともに、詳しい経歴も記されていた。それによると、1939(昭和14)年6月、海軍志願兵として呉海兵団に入り、1年後に航空兵に転科。真珠湾攻撃に参加し、41(昭和16)年12月8日午前3時30分に戦死した。享年は、数えで21歳とあった。
少しずつ、浮かび上がってくる岩槻さんの輪郭。私は、男性に教えてもらった、大阪府吹田市に住むという親族の女性に連絡をとった。
「まさか、今になって國夫さんのことを調べている人がいるだなんてねえ。本当に、ありがたいことです」
大阪府吹田市の住宅街にたたずむ一軒家を訪ねた私を、石井七重さん(80)は丁重に出迎えてくれた。7人きょうだいの次男だったという岩槻さん。石井さんは、長姉の三女に当たる。
真珠湾攻撃当時、1歳になったばかりの石井さんに、岩槻さんとの直接の面識はない。ただ、岩槻さんの実家である「魚松」に預けられて育ち、その人柄などは家族から折に触れて聞かされてきたという。
幼い頃から、勉強、運動神経とも抜群。穏やかな人柄だったが、おろしたての服をけんかでぼろぼろにするようなわんぱくさも持ち合わせていた。尋常小学校を卒業後、旧制中学へ進む選択肢もあったが、「家も貧しいし、きょうだいも多いから」と志願して海兵団に入った。

たまに帰省しても、軍隊生活についてほとんど語らなかった。そのため、どのような任務についているのか、家族は何も知らず、訃報に触れたときも、驚くばかりで信じられなかったという。
岩槻さんのきょうだいでただ一人健在だという2歳下の妹、佐藤きよ子さん(97)=東京都荒川区=にも、石井さんの仲立ちで話を聞くことができた。「もう、こんな歳になって、みんな忘れてしまったから」と言いながらも、ぽつりぽつりと記憶をたどってくれた。
戦死が伝えられたのは、真珠湾攻撃から半月ほどたった41(昭和16)年12月末の食事時。慌てふためき、現実に向き合おうとする家族のもとを、夜遅くまで、近所の人たちが弔問に訪ねてきた。「よくやったね」「立派だったね」と声を掛けられ、佐藤さんは、悲しみを押し殺して「誉れ」と思おうとした。
岩槻さんの「死後の選別」についても、佐藤さんに尋ねてみた。すると、時期ははっきりしないが、他の戦死認定者と同じように進級していないと家族で話題になったことを覚えているという。だが、誰も深入りせず、その場限りとなった。
佐藤さんが、ゆっくりとした口調で振り返る。「特進しなかった理由だとか階級だとか、どうでもよくて。ただただ、生きていてほしかったんです」

空母「翔鶴」艦長の手紙、勲章、尋常小学校の通信簿--。戦後、しばらくは数多くの遺品が家族の手元にあったという。だが、実家の建て替えなどで散逸し、現在、確かに残っているのは写真1枚だけだ。
岩槻さんの端正な顔立ちを眺めながら、石井さんがつぶやいた。
「人の死を冷徹に選別されるような時代に生まれなければね。何を言っても、もう諦めるしかないんだけど」
石井さんは今も、お盆と雪解けの時期の年2回、故郷の村岡まで足を運び、墓参りをして手を合わせている。その際は、孫の大学生、岩槻光栄さん(25)が同行する。小学生の頃、大叔父に当たる岩槻國夫さんの存在を家族から聞き、戦争に関心を抱いたそうだ。文献を調べ、自分なりに解釈しようとするうちに、「國夫さんのような人たちがいたから、不自由なく暮らせる、今の豊かな生活がある」と思うようになったという。
努めて前向きに考えようとする一方で、やるせなさが残る。「國夫さんは、(満年齢で)20歳という、一番何でもできるときに亡くなったわけですよね。『そういう時代だったから』と言えばそうなんでしょうけど、やっぱり信じられないですよね」

石井さんの自宅を辞し、会社に戻った私は、これまで集めた資料を改めて見返した。
アジ歴のサイトで検索した飛行機隊戦闘行動調書や、海軍武官進級令という一次史料。戦史叢書のほか、戸高一成さんが紹介してくれた文献のコピー。岩槻さん本人や、墓石の写真データ。
そして、一連の取材のきっかけとなった1942(昭和17)年10月16日付をはじめとした新聞紙面。派手派手しく、勇ましい言葉で戦争を賛美し、命を落とした人をあがめ立てている。それから80年近く紙齢を重ねた同じ媒体で、私は、戦争の実相をたどろうとしている。
時代が変われば、人も社会も変わっていく。彼らのありのままを映し出す新聞も、変わっていく。当たり前のことではあるが、やはり、割り切れない。割り切ってはいけない。

国家のさじ加減一つで、国民の命が駒のように扱われる時代があったこと。20歳の一人の青年が、遠い遠い太平洋の片隅で、家族の誰もが知らないままに命を落としたこと。その死を、家族が「誉れ」と思い込もうとしたこと。新聞が、そんな時代に同調し、あおりさえしていたこと。その全てを含んだうえで、記者として何ができるのだろうか。
たった1枚だけ残った写真の中で、正面を見据える岩槻國夫さん。その真っすぐな視線が、射抜くように私に突き刺さる。

