幻となった東京五輪、そのポスター「仁王像」 1940年、洋画家・和田三造が込めた思い

2021/05/14 14:00

和田三造が描いた1940年東京五輪の公式ポスター。印刷されず幻の作品となった(「報告書 第十二回オリンピック東京大会組織委員会」より)

 1940(昭和15)年に予定されながら、日中戦争の激化などで開催を返上した東京五輪があった。東洋初の開催で、日本を世界にアピールするため、満を持して用意された公式ポスターは印刷されなかった。仁王像を配した“幻のポスター”を描いたのは、兵庫県の旧生野町(現朝来市)出身の洋画家、和田三造(さんぞう)。国民の大きな期待を背負ったが実現しなかった五輪と自身の作品に対し、和田はどんな思いを込めたのだろうか。(竜門和諒) 関連ニュース 【東京五輪】コロナ禍の五輪日誌-開幕まで1週間の葛藤 地元のオリンピアンが帰ってきた 東京五輪重量挙げ代表・山本選手 「応援が励み。パリではメダル目指す」 東京五輪陸上男子1600Mリレー池田選手「悔しさ経験し今がある」小中生にエール

 右手を挙げるアスリートに、手を添える仁王像。背景には小さく富士山が描かれる-。和田の東京五輪ポスターのデザインだ。
 1940年は「日本書紀」にある神武天皇の即位からちょうど2600年。23年の関東大震災からの復興も印象付けられるとして、31年の東京市会で招致方針が決まった。日本は国際連盟から脱退するなど国際社会での情勢は悪化していたが、ドイツや米国が支持し36年に開催地に決まった。
 公式ポスターのデザインもすんなりと決まらなかった。「報告書 第十二回オリンピック東京大会組織委員会」などによると、図案は公募され、応募作約2千件のうち、神武天皇を描いた作品が1等を得た。しかし、内務省図書検閲課は天皇像の使用を認めず白紙に戻り、当時、五輪公式マークの審査員だった和田三造に再委託された。
 当時、和田は50代半ば。描いたのは仁王像だった。和田に詳しい愛知県美術館学芸員の平瀬礼太さん(54)によると、和田は若いころから日本の美術を大切にし、「世界に誇る日本の仏像文化をアピールする絶好の機会とみて、仁王像を選んだのではないか」とする。筋骨隆々の力強い姿は「ヨーロッパではギリシャ彫刻が題材になったのと同様に、日本的なアスリートの象徴として描かれた可能性がある」と分析する。
 ポスターの原画は残っておらず、報告書にはモノクロの図柄が掲載されている。平瀬さんは色彩について「ユニホームの五輪マークが華やかな以外は、あまり派手な色使いでなかったのではないか」と推察する。
 原画はなぜ逸失したのか。和田の孫で出版社「ぽると出版」社長の和田由貴夫さん(67)=東京都港区=によると、1945(昭和20)年5月の空襲で東京・赤坂のアトリエが燃え、同時に焼失した可能性があるという。「和田三造は下絵を多く描いたためポスターも(下絵が)相当数あったはずだが、1枚も残っていない」と残念がる。
 2020年の東京オリンピック・パラリンピックは、新型コロナウイルスによって開催が1年延期された。東日本大震災からの「復興五輪・パラ」とも位置づけられたが、感染症に振り回される日々が続く。
 3月26日には聖火リレーが福島県をスタート。しかし、今月23、24日に予定される兵庫県では公道の走行が中止され、先が見通せない状況にある。和田由貴夫さんはかつての祖父の姿と重ね、「状況が少しでも良くなってほしい」と願っている。
【和田三造】1883(明治16)年、生野銀山鉱業所の勤務医だった父、文硯の四男として生まれる。99年に上京して黒田清輝に師事。1904年に東京美術学校を卒業し、07年の第1回文展で「南風」が最高賞の2等賞。文部省美術留学生として欧州を巡歴し、東京美術学校教授や日本色彩研究所理事長などを歴任。58年に文化功労者表彰を受けた。67年、84歳で死去。青山熊治、白瀧幾之助と並んで「生野三巨匠」と称される。

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