若年性のがん闘病の男性、抗がん剤治療前に精子保存し子ども授かる

2021/06/27 21:40

陽向ちゃんを抱き、病院を退院する鄭信義さん(右)、まりえさん夫妻=神戸市内(鄭さん提供)

 若年性のがんに向き合う神戸市東灘区の鄭信義さん(39)、まりえさん(30)夫妻は新しい命を授かった。鄭さんは2年前に大腸がんが発覚。抗がん剤治療が始まると、生殖機能が低下する恐れがあるため、精子の凍結保存を経てまりえさんが出産した。「子どもは、私たちの生きる希望」と夫妻。若年性のがんが注目されるなか、鄭さんが選択した「妊孕性(にんようせい)温存治療」はまだ十分に浸透していない。(中部 剛) 関連ニュース 【写真】新たな命の誕生を楽しみに待つ鄭信義さん、まりえさん夫妻 「今日、話したことは全て、僕の後悔」がんで妻亡くしたアナウンサー清水健さん ミニーちゃんに会えた 小児がん再発、闘病中の6歳女児夢かなえる

 鄭さんはリラクセーションサロンを営む人気整体師だった。がんで入院する前の予約は1200件、7年先まで埋まっていた。
 2019年3月、大腸がんが発覚。結婚してまだ間もない頃だった。
 「店は好調だったし、すべてがうまくいくと思っていた。それが一瞬にして崩壊。受け入れられなかった」と振り返る。
 約1カ月後に手術。本格的な抗がん剤治療が始まる前、インターネットで調べてみると、治療によっては精子をつくる「造精機能」が低下し、パートナーが妊娠しにくくなったり、できなかったりすることを知った。
 子どもがほしいと思っていたことから担当医に相談し、神戸市内の産婦人科医で精子を凍結保存。妊孕性の温存治療を始めた。「がんが治った後、人生の設計図を書き直したらいい」と考えていた。
 しかし、体の状態は悪く、抗がん剤治療がつらい。医療費がかさむ上、収入も激減。離婚すら考え、「自分はいつ死ぬか分からない。シングルマザーにしたくない」と妻に打ち明けた。
 まりえさんは「あなたの子どもがほしい。つらい治療であっても子どもが生まれれば希望になる」と鄭さんを説得し、2人は人工授精を決心した。
 新型コロナウイルスの感染が広がるなか、慎重に妊娠期間を過ごし、今年5月5日、予定日より少し遅れて元気な男の子が生まれた。立ち会った鄭さんはうれしさのあまり泣き崩れた。
 「赤ちゃんの涙はこの世に生まれた喜びだと実感した。祝福されて生まれてきたのかと思うと、私も涙が止まらなかった」
 息子には「陽向」と名付けた。
 その5日後が、鄭さんの精密検査だった。医師から腹膜播種(がんの転移)が広がっていると伝えられ、その口調から「余命はそう長くない」と感じ取った。
 がん発覚から2年、一生懸命に生きてきたから医師の診断を冷静に受け止められたという。
 子どもはかわいいし、一緒にいると幸せを感じる。
 「妊孕性の温存に取り組んでよかった。若年性がん患者の希望になると思う」と話す。ただ、「入学や運動会など、息子の成長がみられないかもしれない。どうしようもないくらい寂しい。息子を愛すれば愛するほど孤独を感じる」と表情を曇らせる。
 自身の余命を考えるたび、「子どもをつくらない方がよかったのかな」といった思いがくすぶる。
 がんの症状が悪化すれば、妻の負担になるかもしれない。夫の看護、子育て、仕事…。
 出産前から何度も問い掛けてきたことを、もう一度、妻に投げ掛けた。
 「生まない方がよかったのでは…」。まりえさんの答えは変わらない。
 「私はこれでよかった」と笑顔を向けた。
■兵庫県がん・生殖医療ネットワーク事務局 脇本裕医師(兵庫医科大)の話
 乳がんは若年者の発症が多く妊孕性温存は医療機関、患者とも浸透してきていると思う。胚、卵子、卵巣などを凍結保存しておくことで将来の妊娠の不安を解消し、安心してがん治療に臨める。
 一方、男性の場合、精子凍結は主に産婦人科で実施されるため認知度が低く、妊孕性温存が不十分なケースがある。患者・医療機関に対する啓発が必要だ。
 かつて留学したデンマークでは妊孕性温存は無料で行われていた。日本でも行政による助成が始まっている。日本でももう少し妊孕性温存を利用する人が増えてもおかしくない。
【妊孕性(にんようせい)の温存】医療の進歩でがん患者が社会復帰するケースが増えているが、化学療法や放射線治療などの影響で赤ちゃんができなくなる可能性がある。妊娠のしやすさ(妊孕性)を喪失しないよう、治療前に精子、卵子、卵巣などを凍結保存し、将来的に子どもを授かる可能性を残す。

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