「つらかったが、かけがえのない出会い」 南三陸の夫婦、兵庫のボランティアと歩んだ11年

2022/03/10 20:15

再建した自宅前で、高橋守雄所長(右)と再会した佐藤清太郎さん、京子さん夫婦=10日午後、宮城県南三陸町志津川

 東日本大震災の被災地に兵庫のボランティアと交流を続ける高齢夫婦がいる。宮城県南三陸町のわが家を失い、仮設住宅を経て高台に自宅を再建した。あの日から11年。夫婦は振り返る。「つらいことは多かったけれど、それだけじゃなかった。かけがえのない出会いがあった」と。 関連ニュース 原発事故で「自主避難」 言葉のイメージに苦しむ当事者 「勝手に避難と思われる」 上智大生が論文に 1・1キロ111億円の巨大防波堤工事 津波防災の町は10年で人口2割減 震災で存在感発揮した1台の公衆電話 尼崎で守り続け27年

■「分かんないんだね。何が起きているか」
 佐藤清太郎さん(79)と妻京子さん(78)。同町の中心部、海から100メートルほどの地区に住んでいた。
 地震の起きた午後2時46分は2人で海岸を散歩していた。「必ず大津波が来る」。1960年のチリ地震津波を覚えていた清太郎さんが周囲に避難を呼びかけながら、高台の公園まで走った。
 揺れから約1時間後。濁流にのまれる町を見た。あちこちで煙が上がる。雪も舞い始めた。「地獄絵図だ。流される家から手を振っている人がいた」と清太郎さん。「もう、分かんないんだね。何が起きているか」と京子さん。夫婦は話しながら涙目になった。
■静かだった仮設にぎやかに
 地震から5カ月後、内陸にある宮城県登米市の仮設住宅に入ると、清太郎さんは約150世帯をまとめる自治会長に。南三陸町の各地から被災者が集まり、身内を亡くした人もいた。「同じ町内でも知らない人ばかりで被災の状況も違う。部屋にこもって会話しない人もいた」と清太郎さん。どうすれば住民をつなぐことができるか、悩んだ。
 翌年に出会ったのが、東北にボランティアを派遣していた「ひょうごボランタリープラザ」(神戸市中央区)の高橋守雄所長(73)だ。清太郎さんが悩みを話すと、兵庫のいろんな支援団体を紹介してくれた。バスでやって来た各団体は、寸劇や手品を披露したり、淡路島のタマネギを届けたり、楽器を奏でたり。静かだった仮設がにぎやかになった。
 「津波の話はしなかった。とにかく、楽しい時間だった」と京子さん。自治会でも「お茶っこ会」や「ちょい飲み会」を企画し、次第に集まる機会が増えた。「いま振り返るとね、仮設の長屋暮らしが何だか懐かしくて」。互いに離れがたい仲間になった。
■8年ぶりの再会
 夫婦は約5年の仮設暮らしを終え、南三陸町に自宅を再建した。もと暮らした地区は災害危険区域に指定されたため、海から約600メートル離れ、山を切り開いて宅地開発された高台に一軒家を構えた。周りには真新しい民家が並び、大規模な復興住宅もある。
 町の沿岸は巨大な防潮堤に覆われ、中心部はかさ上げされた。清太郎さんは「町がコンクリートで埋め尽くされた。要塞みたいで、なんかさみしい」と打ち明ける。この高台でも自治会長を任されたが、新型コロナウイルス禍では、新たなコミュニティーづくりが思うように進まない。
 10日午後、「3・11」に合わせて宮城県を訪ねた高橋所長と再会した。連絡は取り合っていたが、顔を合わすのは8年ぶり。「いやあ、懐かしいなあ。お互い年を取って」と清太郎さん。高橋所長も「本当に会える日を楽しみにしていた」と満面の笑みをみせる。
 思い出話は1時間続いた。(上田勇紀)

神戸新聞NEXTへ
神戸新聞NEXTへ