加古川空襲、体験者が語る恐怖 機銃掃射の音に「やられた」 当時14歳の竹内隆さん
2021/08/10 05:30
米軍機の機銃掃射に遭った経験を語る竹内隆さん=明石市内
76年前、空から米軍機が襲いかかり、銃弾が降ってきた。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、現在の兵庫県加古川市も戦渦に巻き込まれた。空襲警報発令は数十回におよぶ。住民らは逃げ惑い、犠牲者も出た。当時、命の危機から逃れた体験を聞いた。(斉藤正志)
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空襲警報を受け、旧制加古川中学(現在の加古川東高校)から田んぼのあぜ道を級友らと逃げている時、米軍機が1機、飛来した。
1945(昭和20)年7月。当時14歳だった竹内隆さん(90)=神戸市垂水区=が、伏せて銀色の機体を目で追っていると、突然、爆音が大きくなった。振り向けば米軍機が、約20機の編隊を成して迫っていた。
「敵機が接近したときは、攻撃されやすいので動いてはならない」と言っていた先生が、先頭を切って走りだし、級友らが後を追っていた。
身を隠す建物はない。竹内さんは伏せたまま、「やられた」と覚悟した。
機銃掃射の音とともに、水田で水しぶきの上がる音が近づいてくる。体の右側を水柱が駆け抜けた。体がぬれるのを感じながら、「助かった」と思った。
竹内さんは同年2月にも、学校にいる時に空襲に遭った。木の陰に隠れ、低空で機銃掃射する米兵の顔が見えた。
命の危険にさらされても、「怖い」と思ったことはなかった。「軍国教育を受け、どんな状況になっても、アメリカに負けるもんかという敵対心があった」と振り返る。
竹内さんは「戦争は人の命が軽く扱われる。孫やその下の世代に、決して同じ体験をしてほしくない」と願う。