深ヨミ

真珠湾攻撃で戦死、「2階級特進」から漏れた6人の真実 史実追求の先にあったもの

2021/08/11 13:30

日本海軍の航空部隊の攻撃で炎上する米戦艦アリゾナ(ロイター=共同)



 1941(昭和16)年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃で戦死認定された航空兵55人には、冷徹なまでの「死後の選別」があった--。79年前のきょう、太平洋戦争の戦端を開いた戦果を受け、攻撃に加わって亡くなった彼らに対し、軍部は異例の「2階級特進」を適用した。だが、この処遇から6人だけが除かれ、1階級の進級にとどまっていたことが分かった。敵前逃亡など、あからさまな咎(とが)があったわけではない。同じ作戦に基づいて、同じ戦闘に、同じ航空部隊から参加して命を落とした兵士に、なぜ明確な格差が生じたのか。(小川 晶)



■きっかけは「けんか祭り」


明治期以降の神戸新聞の紙面を閲覧できる「マイクロフィルム」=神戸新聞社神戸本社



 神戸新聞社の神戸本社11階、文化部フロアの片隅に、年季の入った1台のコンピューターがある。1990年代のデスクトップパソコンのような、厚みのある外観。社内では「マイクロフィルム」の名で通る。過去の新聞記事が焼き付けられたフィルムを、コマ送りで見ることができる装置だ。


 航空機事故を取材する新聞記者がテーマの人気小説「クライマーズ・ハイ」で、「大久保・連赤(れんせき)」の記事を探すシーンに登場する--と言えば、ピンと来る人もいるだろうか。コンピューターとはいえ、検索機能などはなく、まさにアナログの極み。日付や掲載面を頼りに、手元のレバーでフィルムを回し、該当する記事をたどっていく。


 2018年9月、報道部で大型連載の取材班に加わっていた私は、日がなこの装置と向き合っていた。調べていたのは、祭りどころ・姫路の「灘のけんか祭り」。毎年10月14、15日に開催される伝統行事がどのように報道されていたのか、社内の記事データベースが網羅していない時期まで、さかのぼれるだけさかのぼろうとしていた。


 装置の脇にフィルムを積み上げ、10月中旬の紙面にひたすら目を凝らす。記事が見つかれば、プリントアウトして保存する。単純作業の繰り返しに、目をしばたかせて画面を追っていたとき、「横幕」と呼ばれる白抜きの大見出しが飛び込んできた。「大東亜戦争初の論功行賞」。1942(昭和17)年10月16日付の朝刊1面だ。



■兵庫出身の「岩槻さん」


1942年10月16日付の神戸新聞朝刊1面。左下に真珠湾攻撃の戦死認定者が載っている



 レバーを握る手が止まった。個人的に長く戦争取材と向き合ってきたこともあり、本能的に見出しを追っていく。前年12月の太平洋戦争開戦以降、特に軍功があったと軍部が認めた戦死者をたたえる内容だ。


 その中に、「布哇空襲部隊」という太字を見つけた。布哇は「ハワイ」と読む。真珠湾攻撃で戦死した全ての航空兵の名前と階級、出身地が列挙されている。


真珠湾攻撃の戦死認定者に含まれている岩槻國夫さん。2段目の左から3人目に名前がある



 こういう場合、地方紙の記者が考えるのは、地元出身者を探すこと。画面に顔を近づけ、小さなフォントを指でなぞっていくと、1人だけ該当者がいた。「三飛曹 岩槻國夫 兵庫」。それまでにも、真珠湾攻撃に参加した兵庫出身の航空兵を何人か記事にしており、関係する取材もそれなりに踏んでいたが、聞いたことがない名前だった。


 さっそく、社内の記事データベースに名前を入力してみる。いろいろ条件を変えてみても見つからない。少なくとも、ここ数十年は紙面で取り上げられていないようだ。どんな人だったのだろう。わだかまりを残しつつ、追加の情報が得られなかったこともあり、その場では再びけんか祭りの記事検索に戻った。



■「アジ歴」で調べる


2001年に開設された「アジ歴」のホームページ



 それから、2年が経過した。この間、岩槻さんのことは頭の片隅にあったものの、姫路本社への異動など個人的な事情もあり、本格的な取材に踏み出せないでいた。


 迎えた2020年。終戦75年の節目に、神戸新聞をはじめ、各媒体に関連のニュースが載る。戦争を体験した世代はおろか、一つ下の世代ですら高齢化が進んでいる。「これ以上、取り置くことはできない」と考えていたタイミングで、神戸本社への異動が決まる。突き動かされるように、印刷しておいた岩槻さんの記事コピーを引っ張り出した。


 さて、どうするか。戦争取材を進めるに当たって、とるべき手法はそう多くない。まずは、常道から。私は、「アジ歴」に手掛かりを求めることにした。


 アジア歴史資料センター、略してアジ歴。終戦から75年が経過し、事実関係の確認が極めて難しくなる中で、その存在感は大きい。国立公文書館や外交史料館、防衛研究所戦史研究センターなどが保管する、予断を排した貴重な一次資料を横断的に閲覧できる電子資料センターだ。


アジ歴の詳細検索画面。所蔵機関や言語、機密レベルなどで絞り込むことができる



 国立公文書館が運営し、インターネットを通じて誰でもアクセスできる。公開対象も検索機能も年々向上している。真珠湾攻撃の資料を探す場合、当時の呼称に合わせて「布哇」をキーワードに入れるなど-工夫が必要だが、根気さえあれば、何らかの資料にたどり着く。


 取りあえず、岩槻さんが所属していた航空母艦を探すことにした。航空母艦とは、飛行甲板を備えた軍艦で、「空母(くうぼ)」と略される。真珠湾攻撃に参加した航空機は、赤城、加賀、蒼竜、飛竜、翔鶴、瑞鶴の空母6隻から飛び立っており、それぞれの艦の「飛行機隊戦闘行動調書」に、出撃した隊員名が記されている。



■「1階級進級」の違和感


真珠湾に向けて岩槻國夫さんが飛び立った空母「翔鶴」(大和ミュージアム提供)



 岩槻さんの名は、翔鶴にあった。目標目掛けて急降下し、爆弾を投下する2人乗りの艦上爆撃機の操縦員で、階級は「一飛(一等飛行兵)」と記されている。論功行賞の記事にあった「三飛曹(三等飛行兵曹)」と食い違うが、不自然なことではない。陸海軍とも、戦死者は進級するのが通例だった。岩槻さんの場合、真珠湾攻撃の戦死認定で、一飛兵から一つ上の三飛曹になったと考えられる。


 ただ、この処遇に違和感を抱いた。


 真珠湾攻撃の戦死認定者は、2階級特進という異例の対応がとられた--との話を、何かで読んだことがあった。岩槻さんなら、三飛曹のさらに一つ上の、二飛曹になっていなければおかしい。2階級特進というのは、記憶違いなのだろうか。




 アジ歴で検索できる他の空母の資料も当たってみた。戦死認定者の出撃時の階級を一人ずつ調べ、論功行賞の記事の階級と突き合わせていく。大尉が中佐に、二飛曹が飛曹長に。2階級特進者が続々と確認できる。岩槻さんと同じ一飛兵から、二飛曹になった人も、現にいた。真珠湾攻撃で亡くなった航空兵55人を調べ終えたとき、岩槻さんを含む6人だけが、「例外」だったことが分かった。


 「何だ、この格差は」


 思いがけず、言葉が漏れた。



■指揮官の自叙伝


1942年1月1日付の各新聞に掲載された、海軍省発表の真珠湾攻撃の航空写真



 他紙の新聞記事など関連資料からも「55分の6」の裏付けをとった私は、特進の処遇がとられた背景を調べることにした。鍵は、岩槻さんの階級に私が違和感を抱くきっかけとなった文献にある。そう考え、改めて自宅の書棚を見渡したところ、「真珠湾攻撃総隊長の回想」(講談社)に目が留まった。


 航空部隊を指揮した士官、淵田美津雄さんが、戦後になって著した自叙伝だ。ページを繰っていくと、該当の記述が見つかった。真珠湾攻撃の翌42(昭和17)年、海軍兵学校同期の航空参謀と交わした会話で、淵田さんがこう述べている。


 「別に功名争いじゃないがね、飛行機隊では腐っているんだ。特殊潜航艇は九人だからというので、さっさと二階級進級させて、軍神とまで祭り上げているが、空中攻撃隊の方は、五十五人とあって数が多数過ぎるというのでは、納まらないよ。二階級進級は、戦果よりも寡少価値かというわけでね」(原文まま)


1942年3月7日付の神戸新聞朝刊1面。特殊潜航艇の乗組員9人を「軍神」とたたえている



 真珠湾には、航空部隊のほかに、海からも特殊潜航艇が攻撃を仕掛けており、乗組員9人が戦死していた。この年の3月、海軍はこの9人のみを2階級特進させると発表したため、55人を失った航空部隊から不満が出ている--という趣旨だ。結果的には、4カ月遅れで航空兵も同等の処遇を得ることになる。淵田さんの著作では、航空部隊側から強い働き掛けがあった経緯にも触れているが、55人の中から6人が除かれた事実は記されていない。



■四十九勇士


1942年7月8日付の神戸新聞朝刊1面。後ろから4~5行目に「四十九勇士」の文字が見える



 再びアジ歴で資料をたどり、航空部隊の特進発表が7月7日と分かった。その内容が掲載されている翌8日付の神戸新聞をマイクロフィルムで確認すると、当たり前のように、6人を省いた「四十九勇士」という表現が使われていた。他の新聞でも、「燦たり海鷲四十九勇士」(朝日新聞)、「武勲抜群の四十九勇士」(名古屋新聞)といった見出しが踊る。


 基礎資料はそろった。いよいよ、「死後の選別」の理由をたどるだけとなったが、アジ歴でいくら調べても、参考になりそうな文書が見当たらない。防衛庁防衛研究所戦史室(当時)が編集した太平洋戦争の公的記録である「戦史叢書 ハワイ作戦」でも、「連合艦隊司令長官は(機動部隊などに対し)感状を授与した」という記述にとどまり、戦死認定者の進級については触れていない。


 文書類の調査で行き詰まったら、人を頼る。


 私は、識者の知見をうかがおうと、戦争取材でため込んだリストを見返した。真珠湾攻撃についての著書がある専門家ら数人の連絡先をたどり、話を聞いてみたが、2階級特進から漏れた6人を把握している人はいない。


 そんな中で、「あの人なら知っているかも」と複数人が名前を挙げたのが、戸高一成さん(72)だった。「大和ミュージアム」(広島県呉市)の館長であり、2019年には「海軍反省会」(PHP研究所)で菊池寛賞も受けた日本海軍史研究の第一人者だ。



■あいまいな基準


戸高一成さん(大和ミュージアム提供)



 数年前に一度、取材したことがあり、さっそく電話を掛けると、快く応じてくれた。これまでの経緯を伝えたところ、2階級特進した人と、1階級の進級にとどまった人がいることは漠然と把握していたそうだ。ただ、特進から除外されたのが6人という事実は知らなかったという。驚きを隠さず、端的に感想を述べた。


 「(両者の割合が)半々ならともかく、6人だけ例外だったとは……。ずいぶんな差別ですね」


 戸高さんによると、2階級特進は、兵士や国民の戦意高揚のために定められた制度であることは想像に難くないという。根拠となる「海軍武官進級令」では「敵前ニ在リテ殊勲ヲ奏シ首将之ヲ全軍ニ布告シタル者」か「抜群ナル勇敢ノ行為アリ功績顕著ニシテ軍人ノ亀鑑トシテ海軍大臣之ヲ海軍全般ニ布告シタル者」などがその条件とされているが、戦局に左右されるなど運用基準は極めてあいまいで、分かっていないことが多いという。


 そして、一つの助言を与えてくれた。6人が、どのように戦死したかを調べてみれば、何か分かるかもしれない--。



■戦死の状況


取材で参考にした書籍の一部



 私は、これまで集めた基礎資料を見返すとともに、「参考になるかも」と戸高さんが挙げてくれた関連書籍を読んだ。唯一の兵庫県出身者である岩槻さんの最期については、同じ機体に偵察員として乗っていた熊倉哲三郎さんとともに、先述した「戦史叢書 ハワイ作戦」などに記されている。


 「帰路を失すると、『われ不時着す』と報告し、『天皇陛下万歳』を最後に行方不明となって戦死した」


 目印がない洋上で方角や現在位置が分からなくなった場合、搭乗員は、母艦に電波を出してもらって帰路を確認するのが通例とされる。だが、真珠湾攻撃では、艦隊の位置を米軍側に把握されることを恐れ、電波を求めないよう搭乗員で取り決めており、岩槻さんは忠実に守って命を落としたとみられる。同乗の熊倉さんもやはり、一飛から三飛曹へという1階級進級にとどまった6人の1人だった。




 残る4人は、全員が二飛曹から一飛曹へという1階級進級者。佐野清之進さん、羽田透さん、石井三郎さんの3人は、「零戦」として知られる1人乗りの艦上戦闘機の操縦員で、岩槻さんと同じように、帰還途中に行方不明になるなどしたとされる。


 菅谷重春さんは、3人乗りの艦上攻撃機の偵察員で、「機上戦死」との記録が残る。他の2人が機体とともに生還していることから、空戦中に米軍機の機銃掃射を受けるなどして、1人だけ亡くなった可能性がある。


 この結果をまとめたうえで、戸高さんに改めて連絡をとると、二つの可能性を挙げた。


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