深ヨミ

従軍、ヒロシマでの被爆越え香住鶴を再興 「酒の鬼」福本幹夫さんの生涯

2023/05/18 14:00

 兵庫県香美町の老舗酒造会社「香住鶴」の8代目蔵元で、元会長の福本幹夫さんが2022年2月28日、敗血症のため98歳で亡くなった。他界してから1年2カ月余り。敗戦後の食糧難や同業大手とのし烈な販売競争を乗り越え、同社成長の礎を築いた「中興の祖」でもある。清廉潔白な人柄で多くの人に慕われた生涯の原点には、人類史上初めて原爆が投下された広島で被爆してなお生き抜いた、若き日の従軍体験があった。(金海隆至)



 福本さんと最初で最後に出会ったのは22年2月6日だった。体が弱り、新型コロナウイルス禍で長時間の取材が難しかったため、車いすでワクチン接種会場を訪れた際に30分ほど言葉を交わすことができた。


 福本さんは1923(大正12)年5月生まれ。生前に残した手記によると、旧制豊岡中学校(現豊岡高校)をへて、昭和高等商業学校(現大阪経済大学)を半年繰り上げで卒業した後、43(昭和18)年12月、陸軍姫路師団で軍需品の輸送や補給を担う輜重(しちょう)兵連隊に入隊。香住駅前で入営者78人を代表してあいさつし、故郷を後にした。20歳の冬だった。


 「日本が生きるか死ぬかの瀬戸際で、家のことは全く気にしていなかった。国のために命をささげる、その一念だった」。そう当時の胸中を話した。


亡くなる直前に新型コロナウイルスのワクチン接種会場を訪れた元香住鶴会長の福本幹夫さん。長男の芳夫さん(現香住鶴会長)、澄子さん夫妻に付き添われた=2022年2月6日、兵庫県香美町香住区香住



軍人としての転機


 軍国主義に多くの青少年が染まった時代、福本さんも例外ではなかった。しかし、輜重兵連隊の自動車隊で訓練中に起きた「事件」が転機となる。教官にした質問が、その場に居合わせた班長に恥をかかせたと曲解され、ひどく殴られた上、「俺の目の黒いうちは絶対に幹部候補生にさせない」と怒りを買った。軍人としての出世を断たれたと打ちひしがれた。


 数日後、戦闘に携わる兵科からの転身を決意する。陸軍の軍需物資や兵員の衣食住を管理する経理部の幹部候補生に志願することを思いつき、44年6月、政治経済の常識を問う口頭の試験に合格した。45年1月、中国東北部の満州にあった新京陸軍経理学校への入校が決まった。


 「人生は何が幸いするか分からない。私は班長ににらまれなかったら、激戦の南方戦線へ行っている。20代のええ年で、経理部に変わるなんて夢にも思っていなかった」としみじみ振り返った。


陸軍経理部見習士官に


 経理学校がある満州へは朝鮮半島経由だった。姫路駅を出発し、下関から荒波の玄界灘を船で渡って釜山へ。軍用列車で到着した満州の首都新京(現長春)では、経験したことのない厳冬との闘いが待っていた。氷点下20~30度になる寒さで肺炎にかかり、亡くなった戦友もいた。


 春が訪れた4月には演習も行った。荒野を行軍中、幼子の死体がむしろに包まれてコウリャン畑に捨てられているのを目撃した。「人々の貧しさゆえか」と哀れみが込み上げた。一方、畑を踏み散らして進む部隊に向けられた、農民たちの恨めしげな眼差しがまぶたに焼き付いた。「私は本当に申し訳ないと心の中で謝った」と手記につづる。


 5月19日、新京陸軍経理学校を卒業し、経理部見習士官に昇進した。当初はソ連国境方面に配属される予定だったが、本土決戦に備えて内地への帰還が言い渡された。「食糧のない日本に帰ることは内心、うれしくなかった」という。


 祖国日本を取り巻く戦況は刻一刻と悪化していた。九州へ戻る船の中ではアメリカ軍の魚雷におびえながら、軍刀を抱えて眠りについた。


満州の新京陸軍経理学校に入校したころの福本幹夫さん(家族提供)



満州から帰還、広島へ


 博多から大阪に列車で一度戻った後、5月31日夜、広島に向けて出発した。広島師団の輜重兵連隊に入り、7月下旬には房総半島での任務に向けて新設される工兵隊に転属を命じられた。日本にとって、福本さんにとって「運命の日」が近づいていた。


 生前に残した手記によると、転属先だった工兵隊は8月2日、広島師団から独立する形で新設された。広島市中心部から北約6キロの祇園高等女学校(現AICJ中学・高校、当時広島県安佐郡)に本部を置き、ここに部隊長以下、約千人が集められた。ただ、装備は小銃が5人に1丁程度、工具らしい工具はなく、自動車も見当たらないほどお粗末だった。物資が窮乏する中、福本さんは経理部の主計将校として資金や食事の調達に奔走しなければならなかった。


 目の前に迫った敗戦を予感させるような出来事もあった。


 「実は鳥目で目が見えない」-。夜の廊下で肩がぶつかった新兵が恐縮して頭を下げた。「日本はもう負ける」。暗い場所でよく見えなくなる夜盲症の若者を召集している現実に、その思いを強くした。


在りし日の元香住鶴会長、福本幹夫さん=2020年9月、兵庫県香美町香住区森(家族提供)



運命の日


 真夏の太陽が昇り、快晴に恵まれた8月6日は工兵隊本部の女学校にいた。


 その日は朝から軍務で広島市内に行く予定があったが、民間人との約束があり、別の見習士官に依頼。午前8時15分、食事を済ませて出かけようと立ち上がったところ、カメラのフラッシュのような強烈な閃光が差し込んだ。数秒後、すさまじい爆風で窓ガラスが飛び散り、建物の天井が半分落下した。


 急いで外に飛び出し、広島方面を見ると、キノコのような噴煙が立ち上っていた。そばでは、入隊したばかりの新兵が右往左往して逃げ惑っていた。空が曇って黒くなり、雷鳴とともに雨も降り出した。室内に戻ると、兵科の少尉が言った。「これは原子爆弾だ。日本も研究しているが、先を越された。残念だ」。初めて聞く言葉だった。


 やがて校舎沿いの可部線の線路上を被爆者がぞろぞろと歩いてきた。薄着とはいえ、衣類はぼろぼろ、裸同然で血だらけだった。肩から腹にかけて皮膚が垂れ下がっている人もいた。皆苦しそうな顔で、家に帰ろうと気力で歩いていた。元気そうな人に「広島はどうですか」と尋ねると、「全滅だ」と一言だけ返ってきた。


 翌7日朝、自転車で広島市の中心部へ向かった。路上の遺体が次第に増え、自転車を抱えてまたいで歩いた。輜重兵連隊があった中心部まで一軒の家もなく見渡す限り焼け野原だった。市電の鉄柱もぐにゃぐにゃに折れ曲がっていた。防火水槽や太田川に無数の遺体が浮き、地獄図のような光景が広がっていた。


 福本さんの長男で香住鶴会長の芳夫さん(73)は、生前に父から聞いた話をこう振り返る。「『兵隊さん、水くれー、水くれー』と懇願する人がいたようだ。『水をやってはいけない。死ぬぞ』と声をかける人もいた。でももう助からない。水筒の水をそっと飲ませて苦しみから解放してあげたこともあったようだ」


     ◇


 路上で被爆するなどして負傷した兵隊たちは近くの寺に収容した。応急処置を施しても、一人、また一人と死んでいった。体中を包帯で巻いた被爆者の姿は痛ましかった。


 火葬や遺骨の処理は経理部の仕事だった。太田川の河原に穴を掘り、木材の破片に油を注いで遺体を焼いたが思うようにできず、手に負えなかった。このため、大工に作ってもらった杉の箱をひつぎ代わりに遺族に手渡した。「気の毒で、申し訳ない気持ちでいっぱいだった」。福本さんは手記につづった。


香住鶴元会長の福本幹夫さん(中央)と写真に納まる10代目蔵元の孫、和広さん(左)と母澄子さん=2020年9月、兵庫県香美町香住区森(家族提供)



軍隊の後始末


 8月9日には、ソ連軍が満州に侵攻し、米国は二つ目の原爆を長崎に投下した。福本さんは「このように次々と投下されたら、日本民族は破滅すると思った」とも記す。


 そして同月15日、将校の一人から「日本は負けたぞ。天皇陛下のお言葉があった」と告げられ、ぼうぜんとなった。敗戦の無念は尽きなかった。同時に生きて帰れるという希望も湧いた。だが、終戦は「軍隊の後始末」が忙しくなることを意味していた。休む間もなく、経理部の4人は部隊の決算業務に追われることになる。


 生前に残した手記によると、後日、筆舌に尽くしがたい精神的苦痛に見舞われる仕事の一つに、退職金の支給があった。


 支給の数日後、部隊長にひそかに呼ばれ、「誰かに退職金の5千円を盗まれた」と明かされた。犯人捜しのために、兵隊全員の私物検査が行われたが、現金など出るはずもなかった。部隊長から「5千円を何とか工面してくれ」と頼まれた時、福本さんは「できません」と言えなかった。


 今なら、少なくとも700万円以上する金額。極秘の難題を受けて考えた挙げ句、中古のオート三輪車を購入して代金を支払ったものの、納品前に原爆に遭って残骸も分からなくなった-という話をでっち上げた。三輪車は当時高く、約8千円の価格でうその書類を作成し、部隊長に5千円を手渡した。部隊長は上機嫌だった。


 夜は夜で電灯がない暗がりの中、ろうそくの明かりを頼りに帳簿づくりに励んだ。近くで焼かれる遺体の悪臭に悩まされながら、眠くなるとまぶたが自然に閉じてくるため、竹を細かく切って突っかい棒代わりに挟み、精根尽き果てる思いで机に向かった。軍医からは「このまま続けると失明する」とあきれられたが、最後までやり遂げた。


 戦闘の終結後、俗にいう「ポツダム少尉」に昇進した福本さんは8月末に決算書を提出し、ようやく重荷をおろした。部隊は解散しても部隊長と2人で残り、10月になって復員した。


出頭命令におびえ


 復員後、香住に帰郷した福本さんだが、心身ともに休まる日はなかなか来なかった。


 放射線の影響で頭髪が大量に抜け、洗髪すると毛が風呂場の排水口に詰まった。ただ、慣れ親しんだ故郷の食べ物が良かったせいか、1年ほどで健康状態は回復した。「人生の大きな記録」と思い直し、被爆者健康手帳を申請したのは、60歳を過ぎてからのことだ。


 「○○部隊の部隊長○○○、主計○○○、○月○日までに陸軍留守業務部に出頭せよ」-。


 11月に陸軍省が廃止された後も、第一復員省に残務処理が引き継がれたおかげで、新聞に掲載される出頭命令の記事を食い入るように眺める日々が続いた。退職金を不正に捻出した一件もあり、決算書の不備を指摘されて部隊長とともに、いつ呼び出されるのか、気が気でなかった。時効となる5年が経過したころ、「私の戦後はやっと終わった」と安堵した。27歳になっていた。


万死に一生


 福本さんの家業である香住鶴は、江戸後期の絵師・円山応挙と門弟が165点の障壁画(国指定重要文化財)を残して「応挙寺」とも呼ばれる名刹・大乗寺の門前で発展した。戦後は、近隣の酒造家3者との合併をへて復興の一歩を踏み出した。


大乗寺に残る円山応挙や門弟の障壁画。京都を離れて制作した門弟たちは香住鶴の酒で心を慰めたと伝わる=兵庫県香美町香住区森



 福本さんは47年、妻久子さん(2022年5月死去、享年94)と結婚し、1男2女を授かった。東京五輪が開かれた1964年、父の死去に伴い社長に就任。戦時統制の影響が色濃く残った酒造業界で、明治期の伝統技法「山廃仕込み」を復活させるなど、品質本位の酒造りを貫き、兵庫の地酒の雄としての評価を確かなものにした。酒造りに、経営に真摯に打ち込む姿勢は、同業者から「酒の鬼」と評されるほどだった。


 現会長で長男の芳夫さん(73)は「酒の味にうるさい社長でした。ぶつかることは多くても、決して褒められることはなかった」と苦笑する。「軍隊での苦労に比べたら、復員後の苦労なんて何でもないと言っていた。精神力が強かった」。2022年11月、芳夫さんから社長を引き継いだ10代目蔵元の長男和広さん(38)も「地域第一の経営哲学は見習うべき点が多い」と尊敬の念を隠さない。


香住酒造(現香住鶴)社長時代に香住ロータリークラブ幹事を務めた福本幹夫さん(左から2人目)。旧香住町の町議会議員や大乗寺の檀家総代も担った=1968年ごろ(家族提供)



     ◇


 新型コロナウイルスのワクチン接種から1カ月もたたない22年2月26日朝、福本さんは自宅で倒れ、搬送先の病院で28日未明に息を引き取った。ロシアによるウクライナ侵攻が始まって4日後。大往生だった。


 あれから1年以上がたつ今も、取材時に聞いた言葉が忘れられない。


 「お国のために死んだ人には申し訳ない。その一存ですわ。私は原爆から生きて帰った。万死に一生を得たという心境だ」


 25年には創業300年を迎える香住鶴。歴史に「もし」は禁句でも、20歳の若さで戦争へと駆り出された福本さんが生還しなければ、その再興はあり得なかった。


 「立派だと思います」という記者の問いかけには静かにこう答えた。


 「それも運命です」


2025年に創業300年を迎える香住鶴。創業の地から現在地への全面移転は、9代目蔵元の福本芳夫さんが決断した=兵庫県香美町香住区小原



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