深ヨミ

「運転手の夢、かなったよ」。がんと闘うバス好き少年にサプライズ企画

2021/11/22 15:55

一日運転士の辞令を受け取る長田悠さん(右)=姫路市日出町2



 まだ夏の暑さが残る10月中旬、兵庫県姫路市にあるバスの車庫で、とある“入社式”が開かれた。社長から辞令を受け取ったのは、なんと男子中学生。同県南部を中心に路線網を持つ神姫バス(同市)の大ファンという長田悠さん(14)=宍粟市=だ。悪性脳腫瘍や治療の副作用で体調は悪化しているが、バス運転手になるのを目標に闘病生活を送っている。「なんとか息子の夢をかなえてあげたい」。そんな父親の願いが病院や同社を動かし、一日運転手の企画が実現した。悠さんは運転席に座って写真を撮ってもらったり、高級観光バスの乗車体験をしたり、夢のような日を満喫した。


(記事・山本 晃 撮影・大山伸一郎)


この日の体験で“乗務”した3台のバスの前で父親と記念撮影する長田悠さん=姫路市日出町2



 ■特注の名札も


 「辞令 長田悠。一日運転士として、姫路営業所勤務を命ずる」。神姫バスの制服に身を包んだ悠さんは、姫路営業所姫路東出張所(姫路市日出町2)で開かれた入社式で、同社の長尾真社長から辞令と特注の名札を受け取った。営業所の職員らに見守られ、どこか緊張した面持ちだ。


一日運転士の辞令を受け取った長田悠さん=姫路市日出町2



 治療による副作用で、常時酸素の吸入が必要な悠さん。体調の急変に対応できるよう、父圭司さん(50)や通院している姫路医療センターの看護師も付き添う。体に負担がかからないように1時間以内という制限もついた。


 ■いざ運転席へ


 辞令を受け取った優さんは、指導役の運転手と一緒に、まずは出発前の点呼やアルコールチェックの様子を見学した。酸素ボンベを引いて営業所内を歩き、ハンマーを使ったタイヤ点検も興味深く見つめていた。


現役の運転士らから話を聞く長田悠さん=姫路市日出町2



 この日“乗務”するのは3台のバスだ。1台は今年4月に運行を始め、悠さんのお気に入りという燃料電池バス(水素バス)。もう一つは、姫路と東京を結ぶ高速バス。さらに同社の高級観光バス「ゆいプリマ」だ。高速バスや高級観光バスは、本来は熟練した運転手しかハンドルを握れないという。


水素燃料バスの運転席に座ってハンドルの感触を確かめる長田悠さん=姫路市日出町2



 まずは念願の水素バスに乗り、ハンドルを握って記念撮影。運転席横のスイッチを動かしたり、後部のドアを開けたり、恐る恐るクラクションを鳴らしたりした。池田所長が「1台購入するのにかかった値段は?」とクイズを出すと、悠さんは「1億円くらい」と正解を即答。豊富な知識をのぞかせた。


 木を多用した内装が特徴のゆいプリマには、父圭司さんと乗車。姫路産の皮革が張られ、ゆったりとした座席に親子で腰掛け、車庫内をゆっくり巡った。


豪華長距離バスの乗り心地を楽しむ長田悠さん=姫路市日出町2



 1時間ほどの体験を終えた悠さんは緊張もほぐれ、穏やかな表情で圭司さんと営業所を後にした。


 ■きっかけはバス通学


 悠さんは姫路から約30キロ北西にある宍粟市山崎町で、圭司さん、きょうだいらと暮らす。3歳のときに脳腫瘍の一種「多発性髄芽腫」と診断され、放射線治療などを続けてきた。現在も定期的に通院している。


兵庫県南部を中心に路線網を持ち、通勤通学の足として活躍する神姫バス=姫路市内



 神姫バスにのめり込んだのは約1年前。姫路市中心部にある特別支援学校まで、悠さん一人で片道約1時間のバス通学をするようになったのがきっかけだ。これまで乗る機会はあまりなかったが、オレンジ色の塗装のかっこよさや、多くの客を乗せて都市部から山間部まで走る力強さのとりこになった。「夢は神姫バスの運転手」。そう思い定めるようになった。昨年11月に乳がんのため45歳で亡くなった母志保さんも、悠さんの夢を応援していたという。


長田さん一家(2018年3月撮影)=長田圭司さん提供



 圭司さんも「本当にバスに乗るのが楽しみで、喜んで学校に通っていた」と振り返る。悠さんが今年の夏休みに取り組んだ自由研究も、テーマはもちろん神姫バスだ。今春から姫路市内で運行する燃料電池バス(水素バス)に乗った感想を、写真と共に画用紙にまとめた。


 ■「元気なうちに」


 圭司さんは以前、神姫バスの営業所を訪ね、運転席で写真撮影ができないか聞いたことがある。しかし、返事は「コロナ対策や安全上の理由で難しい」。前向きな返事を得られないでいた。


 事態が大きく動いたのは夏の終わりごろ。放射線治療の副作用などで肺の状態が悪化した。「バス通学は大事を取って控えた方がいい」と学校側からは言われた。医療センターの看護師らに相談した圭司さんは、声を詰まらせながらこう言った。


 「元気なうちに、なんとか神姫バスの車庫を見学させられませんか」


 圭司さんの熱意は、看護師らを動かす。神姫バス本社に掛け合い、夢の実現に向けた調整が始まった。


 ■熱意は現場にも


 同社はこれまで、ファン向けのイベントなどで営業所を公開したことはあった。しかし頻繁にバスが行き交って危険なため、普段は敷地内への関係者以外の立ち入りを禁止している。一日運転手を受け入れるのは、もちろん初めてだ。


憧れのバスへと向かう長田悠さん=姫路市日出町2



 病院側の呼び掛けを受け、姫路営業所の池田広幸所長(59)と谷口慶彦副所長(56)が神姫バス本社と折衝した。2人ともバスの運転に憧れて入社し、長年ハンドルを握った。だからこそ、打ち合わせの時に圭司さんから見せられた悠さんの自由研究に心を動かされた。


神姫バス姫路営業所の池田広幸所長とグータッチを交わす長田悠さん=姫路市日出町2



 「バス運転手を夢見る若い人材が減っている今、ぜひかなえてあげたいと思った」と池田所長。当初は水素バスでの撮影だけを予定していたが、悠さんを喜ばせようと、入社式や名札、他の車両への乗車などさまざまなサプライズを準備した。


 ■これからも神姫バスに


 「夢はかなったけれど、これからも神姫バスに乗り続けたい」。“一日運転手”の体験後、悠さんは照れながら話してくれた。肺の症状が悪化して9月からは学校に通えなくなり、最近は家でふさぎ込むこともあったという。「会社や病院の協力あってこそ。いい思い出になりました」。父圭司さんも感慨深げだ。


 新型コロナウイルス禍は、バス業界にも大きな影響を与えている。少子高齢化も相まって、都市部でも路線の減便や廃止が相次ぐ。そんな中、来年1月に定年を迎える池田所長は「私自身も最後の思い出になった」と喜ぶ。「厳しい状況だからこそ、改めて神姫バスを愛してくださるお客さまを大切にしていきたい」と前を向いた。


 悠さんの思いが詰まった水素バスの自由研究は、同社の姫路東出張所に今も大切に飾られている。


神姫バス姫路営業所姫路東出張所に張られた長田悠さんのリポート作品=神姫バス提供



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