(5)浮き沈み 豊かさの影、足元に“危機”
2015/09/16 11:20
港の桟橋に並ぶ灯籠船。「極楽丸」などと名付けられ、沖に流された=南あわじ市沼島(撮影・小林良多)
キーン、チリンチリン-。
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8月26日午後7時すぎ。沼島(ぬしま)(南あわじ市)の路地に、澄んだ音色が響いた。
「詠歌組」の女性らが撞木(しゅもく)で鈴(りん)を打ちながら、詠歌を唱(とな)える。玄関先には真新しい灯籠。今年、初盆を迎えた人のものだ。
7日の灯籠上げで始まる沼島の盂蘭盆会(うらぼんえ)はこの日、「二十六夜(にじゅうろくや)さん」の灯籠流しで終わる。
午後10時ごろ、親族や近所の人ら100人以上が桟橋に集まった。灯籠は約1メートルの木船に載せられる。今年は8基。漁船で沖へ向かう。海と生きてきた人々ならではの風習だ。
船にはお供え物も載る。桃やぶどう、ハモちりに野菜の煮物-。「おじいの好きなもんばぁ、載っけたぞ」
夫の丸井新三さんを亡くした喜代子さん(74)が手を合わせる。
「みんなでええとこ、いかんせよ」
暗い海の上、灯籠船は放され、波間を流れていった。
見る見るうちに小さくなる灯。この人たちは、島でどんな時代を生きてきたのだろう。
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長年、沼島の風景を絵巻物に描き続ける人がいると聞き、会いに行った。
元漁師の中田久治さん(87)。昭和10年前後の小学校は「1クラス60人。そらにぎやかやったで」。
「沼島千軒」と繁栄をうたわれたように、当時は中心部に商店街があり、夜も人だかりができていた。
1937年、日中戦争が開戦。多くの漁師が大阪に移り、軍の御用船に残った鉄や石炭を売る「荷後買(にごうが)い」に転身した。
中田さんも13歳で東京の印刷会社に勤めたが、第2次世界大戦の戦局悪化で会社は閉鎖。44年、沼島に戻った。戦禍はのんびりした島にも及び、45年7月には米軍機の爆撃で数人が亡くなった。
「戦争終わったら、またすぐに、景気ようなったなぁ」
戦中、漁が控えられていたせいか、魚は驚くほど捕れた。沖で漁をしていると、大阪に行く船がタイを倍の値段で買って行った。
高度経済成長期。一晩に100万円近く稼いだこともある。息子を大学に行かせることもできた。
そんな島の豊かさが、皮肉にも“危機”に気付くのを遅らせた。
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過疎化がまったく心配されなかったわけではない。54年、沼島は離島振興法の対象に指定。町会議員は「このままやったら島は存続できんようになる」と訴えていた。
ただ、腕一本で稼いできた漁師たちに切迫感はなかった。バブル崩壊で魚価が下がっても、漁獲量が減っても、「みんな大丈夫やろと思ってた」と中田さん。
楽観的な空気が変わり始めたのは、10年ほど前だった。
「このままやったら汽船がもたんらしい」
島民の足である定期船は、国や県の補助で1日10便が維持されている。それが行革の流れで危ぶまれるというのだ。
「もう漁業だけではあかん」。立ち上がったのは女性たちだった。(岡西篤志)
◇NEXTに灯籠流しの動画を掲載しています。