(4)よもや戦争になるなんて

2013/05/24 23:33

細見竹雄さんの両親。家族で米、麦、野菜などをつくり、懸命に働いた(細見さん提供)

 シベリアに抑留され、「死の部屋」に送られた篠山市の細見竹雄さん(91)は、古里・篠山の祖母のことを思い出した。 関連ニュース 過酷さ記した軍医の書簡 未解明の北朝鮮抑留に光 戦中戦後のはがき210点 新宿の平和資料館 シベリア抑留で慰霊祭、東京 「悲劇、後世に伝える」


 「おばあさんは達者な人でな。明治生まれで、食べられる野草とか、生活の知恵はみんなおばあさんから教わった。たまにやけど、1銭とか2銭とか、小遣いももらってな、駄菓子屋であめを買うてな。大きいのは一つ1銭、ちっちゃなやつは二つで5厘やったな」
 「おばあさん子やったんや、わしは。お母さんはな、子どもは8人産んだんやけど、体が弱かったちゅうか、ちょっと農作業したら一月(ひとつき)ほど寝たりな、病気がちやった」

 竹雄さんは1922(大正11)年、畳職人の長男として、当時の草山村で生まれた。

 「何しろ兄弟の数が多いから、貧しくてな。田んぼは2反か3反はあったけど、小作やから、7割くらいは庄屋に納めなならん。冬は麦作りしてな。蚕も育てて、寝るとこないくらいようけ飼いよったな」
 「主食は一応米やったんやけどな、麦をようけ混ぜよったさかい、米を食べとんか麦を食べとんか分からんくらい。おかずもろくなもんはあらへん。野菜を炊いただけやったな。近所もみんなそういう貧しい生活をして、耐えて生きよったさかいね。上に姉が4人おったけど、学校出たら、みんな薬屋とか洗濯屋に女中奉公に出とったね」

 竹雄さんは尋常高等小学校を卒業後、家業を継ぐため、10代半ばで畳職人に弟子入りした。日中戦争が始まったころのことだ。1941(昭和16)年、日本はアメリカなどに宣戦布告し、ハワイの真珠湾などを攻撃した。戦争が泥沼化し、日本の敗色が濃くなっていく中、竹雄さんは徴兵され中国大陸に渡った。44年のことと記憶する。

 「868部隊ちゅう関東軍の国境守備隊に配属されてな。野砲を引っ張る馬を扱う『馭兵(ぎょへい)』として、『観月台』いう陣地に行った。ソ連の監視台も見えよったけど、よもや戦争になるなんて思いもせんかった。なんせ、こっちは兵器がないんやから。南方へどんどん運んでってもうて、しまいには大砲1門に弾が200発しかのうなった。1時間も撃ったらしまいや」

 終戦直前の45年8月9日、旧ソ連が日本に対して宣戦布告した。「戦後強制抑留史」によると、このとき関東軍は後方に態勢転換する途中で、国境付近にはわずかな兵力しか配置していなかったという。(小川 晶)

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