(9)20歳で入隊それが一人前
2014/08/24 15:36
遠藤さんが詰めていた社長別宅。現在は、武田薬品工業のゲストハウスや史料の保管場所に使われている=神戸市東灘区住吉山手
1939(昭和14)年、岡山県笠岡市の笠岡商業学校(現・笠岡商業高校)を卒業した遠藤毅さん(93)=西宮市=は、大阪の武田長兵衛商店(現・武田薬品工業)に就職した。
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「入社したら作業服を与えられ、朝の9時までに社長の本宅に入った。廊下と便所の掃除、雑巾がけ、庭の落ち葉かき。昼前になると、お手伝いさんから『ネギ買ってきてちょうだい』と言われて、公設市場に行く。社長の家の小間使いや。それを1年ぐらいやった」
「2年目になると、着物に角帯で秘書みたいな役回りになる。社長は午前中に売上帳や入金帳、会計簿とかを詰めて帰ってくるのよ。それを昼すぎから、言う通りに見せるわけ。順番よく、ぱっと帳簿を出さないといけない。幹部を呼んできたり、面会の手はずを整えたりしたな」
41年、20歳になった遠藤さんは徴兵検査を受けることになった。
「そのとき僕は、神戸にあった社長の別宅に住んどった。別宅には社長の息子家族が住んでて、若手社員は、大阪の本宅と神戸の別宅に3人ぐらいずつ詰めて、3カ月ごとに交代しとったんや」
「徴兵検査は、甲種の次の第1乙だったかな。『筋骨薄弱だから、入隊するまでに体をよく鍛えておけよ』と言われた。『戦争に行きたくない』いうもんもおったんか分からんけど、僕はそんな気持ち、毛頭なかったね。20歳になったら徴兵検査を受けて、軍隊に入って、天皇陛下のために死ぬんだと。それが一人前の日本人だというのが普通だったし、僕も疑問を挟まなかった」
太平洋戦争が始まって間もない42年2月ごろ、遠藤さんは岡山の陸軍歩兵第54連隊に入る。10日ほどして、中国大陸にわたった。
「54連隊は、三つの大隊からなっとった。歩兵は一つの大隊に、200人規模の中隊が四つあるから、連隊全体で2400人ぐらいやな。僕が所属したのは第12中隊。連隊本部があった海州(江蘇省)から10里ほどのところで、半年間くらい初年兵教育を受けた」
「一緒に入った同期は、50人くらいおったんかな。そのうち1割ぐらいが中等教育を出ていた。尋常小学校しか出てなかったら、2等兵から1等兵、上等兵って順々に上ってかなあかんけど、中等教育を出とると試験を受けて、下士官や将校になることができたんや」
(小川 晶)