(6)入植1年たたず 父病死

2015/02/20 12:30

戦後に書かれた石坪さんの父親の死亡証明書

 旧満州国の浜江省蘭西県北安村に入植した高橋村(兵庫県豊岡市但東町)の開拓団は、共同で農作業に励む。作物に恵まれ生活が軌道に乗り始めたころ、石坪馨(かおる)さん(86)の一家を悲しみが襲う。1944(昭和19)年10月25日、大黒柱だった父親が46歳で亡くなった。 関連ニュース 甘くきめ細やか夏大根 新温泉町・畑ケ平高原で収穫 日本城郭協会理事長 出石城と有子山城の価値解説 豊岡の魅力、SNSで発信 市が若者向けに


 「農会長だったおやじは、向こうでも集落の農業の責任者をしとったんですな。暑い夏でも休憩せんと、きばっとったんですわ。そしたら肩が凝ると言いだし、歯茎がはれて。8月から2カ月ほど、病院に入院したけど治らんでねえ。遠くハルビンの赤十字病院まで、馬車で丸1日かけて行ったんです」

 石坪さんによると、ハルビンのホテルに泊まった際に腸チフスにかかったという。

 「同じ病院に入院しとった人から、もうすぐ退院しそうだと聞いとったんです。そしたら電話があって、死んだで来い言われてな。駆け付けると、霊安室で白い布だけ掛けられて寝かされてました。これが父かというくらい、やせ細って小さくてねえ。医者に聞いたら、脳に菌が入ったということでした」

 戦後、開拓団の幹部が書いた死亡証明書には、「腸出血のため急変し」「症状の経過は附添(つきそい)看護婦より伝へ聞いた程度で専門的のことは解(わか)りません」とある。

 「内地にはおじいさんやおばあさんを残しとるし、母は『もう日本に帰る』と言いだしてね。ほんでも私は、まだ満州に来て1年もたっとらんのに帰れへん、弟たちを連れて帰れ、と言い張ったんです。そしたら、私1人を残してよう帰らん言うてねえ。私はそのとき満15歳でした。成人になっておれば、母も帰ったのかもしれんけど」
 「あのとき私が言うことを聞いて帰っとったら、母を集団自決で死なせずに済んだやろうのになと。後になって考えたら思いますね。私はおやじが亡くなって戸主になるんだから、しっかりせんなんと思ってました」

 開拓団が頼りにしていた陸軍関東軍は、どんどん南方などへ引き抜かれていた。それを補うため、45年には満州でも、男子を召集する「根こそぎ動員」が始まる。開拓団は高齢の者と女性、子どもばかりになっていった。
(森 信弘)

神戸新聞NEXTへ
神戸新聞NEXTへ